元村正信の美術折々/2017-11-07 のバックアップ(No.2)


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美術折々_117

ゴミと芸術への、問い

いま宮崎県の都城市立美術館で、鹿児島・宮崎両県在住と出身作家による展覧会『MESSAGE2017 南九州の
現代作家たち』が開かれている(12月3日まで)。11月4日付の読売新聞西部版朝刊文化面で、白石知子記者が
この展覧会を取り上げていた。

同展は、1997年から10年ごとに開催され、「現代美術」の動向を踏まえながらの3回目となるらしい。
いずれも企画は原田正俊学芸員によるもの。いつも言っているように、僕から見れば美術におけるこの20年と
いう時間は、「現代美術」崩壊後の「アート」化の流れでもあった。ちなみにこの展覧会関連のシンポジウムの
タイトルもズバリ『南九州のアート20年』。

まちがっても「南九州の現代美術20年」ではないのだ。すでに現在という地点が、「現代美術」ではなく
「アート」という視点に立脚した上で、この20年が「アート」として振り返られていること。このことからも
僕がつねづね「現代美術」は崩壊したのだ、と言っていることの意味を少しは分かってもらえるかと思う。

しかし、この20年間を堂々と正面から「アート」として振り返られるスゴさ。時代はここまで来たのだ。
それは九州の南でも例外ではなく「現代美術」なきあとの「現代」も「美術」もいつの間にか、「アート」と
化してしまったということである。

それはともかく、この展覧会の出品作家の中から、宮崎県出身で現在福岡市を拠点に活動する若手作家、
宮田君平の作品には、いろんな意味で興味をそそられた。
タイトルは「What is this? - Rubbish. And this? - Rubbish. And this? - Rubbish. And this? - Art.」。Rubbishはイギリス英語で「ゴミ」という意味だが、スラングとして「たわごと」「つまらないこと」という
意味もある。

この作品をすこし説明しておくと、展示室の床には、くしゃくしゃに丸めた紙が散乱しその片隅には同じ紙が
山積みになっている。それらの紙のすべてには「RUBBISH」と書かれているが、部屋中央の台座の上にひとつ
だけ「ART」と書かれた紙があるというものだ。床に散らばる「ゴミ」らしきものと、台座の上の「芸術」
らしきものへの問いかけ。概念的、図式的すぎるいえばそれまでなのだが。

ただここで僕は、「RUBBISH」と「ART」を入れ替えて見たくなる。床に散乱する紙の「ART」、そして台座の上に崇められる「RUBBISH」として。つまり宮田君平の作品の構造は、そのような想像による反転を合わせ持っていることになるのではないか。

しかしそのとき、「ゴミ」と「芸術」は同じ水準で隣り合っていることになる。要するにゴミと芸術の区別が
つかなくなる訳である。ということは、宮田の“作品”は、ゴミであり芸術でもあり、またゴミではなく芸術でも
ない、という宙吊りの状態に置かれていることになる。もしかしたら、宮田はそのことまで目論んでいたのだろうか。

ただ Rubbish には、スラングとして「たわごと」「つまらないこと」という意味があることを思い浮かべる
なら、宮田が意図したものとは、かりに「ゴミ」と言っても「芸術」と主張したとしても、〈美術館〉の中では〈作品として〉見られる以外にないではないか、ということなのかも知れない。あるいは、それはゴミか芸術か、といった「つまらない」論議よりも、所詮これは「たわごと」なのですよ、と知らない顔で押し通すことだったのだろうか。

もしもこの作品が、彼の問いかけが、ゴミにも芸術にも見えなかったとしたら。はたしてこれは何なのだろうか、という問いが残される。いまや美術館は「芸術」だけの特権的な場所ではない。芸術以外のものに触れる
ことにだって開放されているではないか。

それほどに、宮田君平の「作品」は危うい。そして「ART」自体もまた危うい、と言えるのかも知れない。