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美術折々_116
アート その究極の定義
「アート」か、「芸術」か、を巡っての先日の屋根裏貘でのトークでも出たことだが、僕なりに現在の
カタカナの「アート」というものを解釈するなら。
まず不特定多数の人を楽しませたり元気づけ笑顔にするための消費や流通の方法のひとつとして採用される
エンターテインメントとしてのアートと、一方で参加や対話、行為、つながり、そして地域といった社会と
より積極的に深く関わろうとする、いわゆるソーシャリー・エンゲージド・アートとを、その両極に置いて考えてみれば、分かりやすいと思っている。
この日本でみずから「アート」と称するものであれば、おそらくこの両極のあいだのどこかに位置付けられる
のではないだろうか。ここでの「アート」の多くは、まず存在論的に「アートとは何か」を問うことよりも、アート《と》何か、アート《で》何かと、アート《が》何かをといった、つまり人と人、ものともの、あるいは人とものとの間に立って何かと何かを〈媒介〉する有用、有益なる媒体としての、そういう役割としての存在である。とうぜん、まちとアート、地域とアート、もまたしかり。
近代以後、この国が生んだ翻訳語としての「美術/芸術」の概念の拡張のすえに、私たちはいまでは積極的に
カタカナの「アート」という語を選びとってしまった変わりに、「アート」の内実を不問に付してしまうことで「アート」の空洞化を手に入れた。
いや空洞化することによって、その内実を問わないことによって、グローバルに、より「自由」になったので
ある。もはや、アートはアート自らではなく、アート以外のあらゆるものとの関係性においてこそ「アート」であると規定しうるなら、その規定の内側はまったくの空無ということになる。
100年前のマルセル・デュシャンは、あの〈泉〉によって「当時の美術の概念に打撃を与えた」のではなく、逆に美術の「概念」というものをより強固に、より鮮烈に差し示す結果をもたらした。それは彼自身が超えようと
して意図したものが、「美術」そのものを拡張したと同時に認知されたことを意味してもいた。
だがいま、「アート」にそのような概念の拡張は期待されてはいない。
むしろ概念への問いをまたいで、「アート」は持てなされている。重宝がられている、と言うべきだろうか。
「アート」はそれで済むのかも知れない。しかし、いまだ「芸術」は必要とされているのだろうか、という疑念は残っている。
美術評論家の宮田徹也は、「ヨコハマトリエンナーレ」(11月5日迄)のリポートの中で「アートが、日常に
完全に飲み込まれているように感じます」。そして「アートが日常化したのでも、特権的な姿を放棄したのでもなく、アートが日常に、完全に敗北したとしか思えないのです」と記していた。
「瑣末な現実」の羅列にしか見えないアートとはいったい何なのか。たとえば、日常=社会だとするなら、そのような日常や社会に積極的に深く関わろうとする「アート」が、日常あるいは社会に〈完全に敗北〉している
ように見えてしまったこと。
「アート」を考えるとき、この体験は決して軽くはないはずだ。アートは日常を超えるどころか、もしかしたら、どっぷりと日常と関係し同調し埋没することによって「アート」たりうるかも知れない。
近い将来、「アートはアートではないことによって」唯一その存在を証明する日が来るのだろうか。
《アートとは、アートではないことによってのみアートたりえるものである》 という究極の定義が。
であれば、アーティストもアーティストであることを廃棄することによってのみアーティストたりえる、
ということになるのかな。