元村正信の美術折々/2017-07-17 のバックアップ(No.2)


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美術折々_106

「美術」と「将棋」

いま話題の棋士、藤井聡太四段が、7月15日(土)付 朝日新聞朝刊別刷「フロントランナー」のインタヴュー
の中で、(学校の授業で)苦手な科目は — という(将棋とは無関係?な)質問に、次のように答えていた。

—「美術」です。 鉄板ですね、これは。 何で絵を描かないといけないのか、わからないです。

面白いなあ、と思った。そう、現在の子どもたちは教科としての「美術」と出合う前に、すでに主体としての
個性や自由、感性的表現、創造力といったものを、社会的にも身に着けさせられているのではないか。
「何で絵を描かないといけないのか、わからない」という素朴な返答はおそらく、自分にとって描くことの
必然性、あるいは必要性が切実さとして持てない、ということなのだろう。

もちろん誰にだって、絵を、何かを「描くこと」の技法や技術が必要なわけじゃない。たぶん藤井クンは、
「描かない」生き方があってもいいんじゃないか、と答えているようにも思える。そんなとき「美術」という
科目は、教育は、「描かない」表現や生き方を、子どもたちに向けて問い直すことができているのだろうか。
いやそうだった、当の「美術」そのものが危殆に瀕しているんだった。

「美術」は、「芸術」は、〈表現の自由〉などと自らを主張するまえに、表現〈からの〉自由をこそ
まず考えてみるべきだろう。

もはや、感性も創造性も想像力も 「美術」や「芸術」教育だけの独自性、特異性ではない。この高度に過剰な
消費社会、交換社会では誰しもが日常の生活や仕事において、自らの肉体のみならずその感性的表現や創意工夫そしてそれらへのモチベーション(動機付け)が、表現が、あらかじめ求められているそんな時代である。
なにしろなんでも「アート」として生活化し、「生活」そのものがアート化しているのだから。
それは「政治」だっておなじだ。

だからこそ、ここでも「美術」や「芸術」は、試されているのだ。
もし『それ』が「美術」でなくてもよいのなら。「芸術」でなくてもよいのなら。「美術」でも「芸術」でも
なくてよいのである。それ以外の何かでよいのだ。つまり「将棋」でもよいのである。

「美術」と「将棋」を分け隔つものとは何なのだろう。僕なら、藤井四段にそう尋ねて見たかもしれない。