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美術折々_56
あらかじめ失われた「自己」
革靴、シャツ、枕、下着、女性、人形などの〈モノ〉が、どれも紙に黒のコンテで、リアルに描かれている。
武田総章展 「身体考」のことだ。そのほとんどが、雑誌のグラビア写真をモチーフに描いたもの。
どれもみな「日々大量に生産され、消費されていくイメージとしての身体」だと作家はいう。あえてその色彩を捨象したモノクロームの単一性が、かえってフェティックさを強めている。
たとえば男性ものであろう革靴。きちんと揃えられた新品の一足の靴が、上から見おろすように描かれている
それだけの「絵」である。私たちの欲望を〈触発〉する商品としての靴を引用しそれを描くことで、武田は、
あふれる「欲望」というものをもういちど突き放し、冷徹に見つめ直そうとしているのだろうか。
武田総章は2年前の個展で 「風景考」と題して、やはり紙に黒のコンテで、身近かな「風景」を遠近感をもって
リアルに描き出していた。それらの風景は、当たり前のように思われ、広がっている既視感や日常の光景というものへの疑い、疑念として捉えなおされていたように、僕は記憶している。
今回の 「身体考」でもそのような問いは、私たちの「社会の関係性の網目」に浸透し食い込み、なおかつ捉え
どころなく浮遊し続ける「イメージとしての身体」あるいは「物」そのものへと向けられているように思える。それは同時に、そこからこぼれ落ちていく 生身の「私という身体」の欠落やそれらとの乖離といった、
否応なく私たちが抱かざるをえないある種の「不全感」であることを、武田はこれらの〈モノ〉を通していわば 「不在の身体」を描くことで「私と身体」という、いわば鏡像関係をも描いて見せてくれたのかも知れない。
そう、あのランボーの名句 「私はひとりの他者である」という言葉。そしてそれを引き出しながら、さらに
ラカンは「人間の欲望は他者の欲望でもある」と明言しているではないか。
武田が描いた一足の靴は 「私のもの」でありながら当然「他者のもの」でもあるのだ。なぜそれが可能なのか。これはなにもシェアし合っているからではない。なぜならそれは靴が、武田がいう「イメージとしての
身体」性を担っているからである。自己は他者によって担われているからこそ、どこまでも靴は鏡像である
ことによってフェティッシュなものともなり、消費されるイメージともなりうるのだ。
最後に、武田の今回の作品の中からもう一点紹介しておきたいのがある。それは横たわる少女のような人形を
描いたものだ。この虚無と空虚に充ちた美しさは一体なんだろう。血のかよわぬ冷たさをたたえた身体。
おそらくこの少女も、靴と同様に、いやそれ以上に虚ろな鏡像なのだ。だから私たち見る者は、他者は、この
描かれた少女像の中に失われた身体、つまりそれぞれの〈自己〉を見いだすのではないだろうか。
だが誰よりもずっとまえに、武田総章によって、その「身体考」によって、これらの〈モノ〉たちはすでに
見いだされていたというべきか。
[同展は、6月5日(日)まで福岡市中央区天神の「ギャラリーとわーる」で開催中]