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美術折々_314
なぜそのように描かねばならないのか
絵を描くという時。何を描くかその対象さえ決まっていれば、誰にだって描ける。たとえば小学校の図工の時間。絵ではないが、粘土で好きな動物を作るとしよう。みんな自分の好きな犬や猫、うさぎなどのペットや、動物園のゴリラ、キリンや象に挑んだりするもの。だが気転がきく子はちょっとひねって、タコやヘビあるいは貝などを作って真っ先に「ハイ出来ました!」と言って笑ったりする。つまりテクニックのなさや図工の苦手さをアイデアで簡単にクリアしてしまう。絵にしてもこれはゴリラですと言えば、ゴリラに見えなくとも「絵」にはなる。
大人が絵を描くということだって同じだ。技術的なことさえ無視すれば、誰でもどんな絵だって描ける。ただその絵が面白いかどうか、というのはあるが。つまり感動や不思議さを生む作品というのは、技術的な次元で決まる訳ではないのである。もちろん画家だって写実絵画のように超絶技巧などと言われ、その高度な技術に見るものは惹きつけられもする。だが絵画を見るとき、芸術に触れるとき、技術的な驚きのほうにばかり目を奪われると、それがなぜ絵画で芸術でなければならないのか、なぜそのように描かれ作られねばならないのか、という大事な問いを見落とすことになる。
では僕の場合はどうか。僕も現在、「絵」を描いているので「画家」だと思っている方もいる。ただ僕が芸術というものを本格的に志すようになったのは絵描きや画家になろうと思ったからではなく、何より「現代美術」というものに関心を持ったからだ。初期のポスト・コンセプチュアルな作品に始まり、色んな試行やスタイルを経ていまの「絵画という形式」にいたったので、画家ではなくその全体をつらぬく「美術家」といっている訳だ。これからでも絵画以外の方法を取ることだってあるかも知れない。
それでも先にいった「なぜ絵画でなければならないのか、なぜそのように描かねばならないのか」という問いは、自分の作品にもとうぜん向けられていることに変わりはない。
じっさいそのことは、いつも絵を描きながら頭から離れることはないし、同時に「絵画ならざるもの/絵画でなくともよいのなら」という問いもある。
いずれにせよ今年も始まった。絵のこと作品のこと、考えていることを、このブログなどに書きつらねて行こうとおもう。
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そんなこんなで、ことしもどうぞよろしくお願いいたします。
元村正信
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▲元村正信展「非天使」テンシ二アラズ 2020 より