……………………………………………………………………………………………………………………………………
美術折々_305
限られてはいるが、生という無限の迷路を
詩人の北村太郎(1922-1992)は、詩集『港の人』(思潮社、1988年)のなかで
「なしとげられないことはなしとげられないままに/それこそ/風にさらされていればいい/
木だってなにひとつ完結しているわけではないのだ」(105)
「やっぱり生は/死のやまいなんだよ/つまり/死は健全であって/それが病気になると生になるんだ」(63)
そう詠っていた。どう天を仰ぎ見ても死なない限り、やはり生きることは病いなんだ。
ちょうど今の僕とそう変わらない歳の頃。じぶんの病いをふまえ、
死の予感と若い恋人との生のあいだで揺れていた。
どんな生も死によって完結する。死はすべての途中を、やむなく終わらせてしまう。
だが生は、作品というものは、完結しない。天は病んだまま、生もその限りにおいて完結しない。
絵画だってそうなんだ。絵はなしとげられないから、なしとげられないまま絵として現れる。
絵画はもどかしい。なぜなら絵という窮屈さにおいてしか、絵にならないからだ。どんな傑作においてさえも。
「風にさらされ」るようにして現れるしかないのだ。そう思うと、少し身も心も柔らかくなってくるようだ。
人はなぜ描くのか?なんて永遠に答えの出るものではない。そこには辿りようにない起源だけがある。
僕はどこかで、絵というものから解放されたいと考えているのかも知れない。勝手にしろよと言われそうだ。
それでも、長いあいだ何度も僕の作品を見てくださっている方にとって、僕の絵はどう映り、変わってきたのだろうか。そのことがずっと気にはなっている。僕が迷路を歩いているということは、それを見ている方も迷路の中で見ているはずだ。
ただ、なぜそれが「迷路」なのかということ。絵画とは行き止まりの壁に向かって描く行為なのか。
しかしその壁は行き止まりのまま奥へと動いているようにも思われるが。
どんな時でも迷路に行き止まりは付きものだから、すぐ引き返せばいい。
そうやっておそらく北村太郎は、行きつ戻りつ「なにひとつ完結しているわけではないのだ」と記したのではないだろうか。
限られてはいるが、生という無限の迷路のなかで。ずっと港のほうを見つめ続けていたのだ。
▲元村正信展2020より