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美術折々_298
分からなさへの想像
このささやかなブログを書き連ねて5年半ほどが過ぎたけれど、
どこでどんな方が気づきいつも読んでくれているかが、分からないことに変わりはない。
ただそれを知りたいというのは、いつもどこかにあるのです。
暗中模索とはよく言ったものだと思う。
そういう書き方をしているからいっそう不安なのである。
僕も長く福岡市というところに住んでいるから、時にはこの地方や地域での見聞きを
とくに美術や芸術に関して見たり感じたり思ったことを、もっと書けばいいのだろうが。
それはそれで興味や話しを狭くしてしまうようで、中々書けないでいる。
むかし西日本新聞の文化面で渡辺京二が、九州・沖縄を中心とした同人誌評というか
西日本の文学時評のようなものを長く寄稿していた時期があった。
これは『地方という鏡』として単行本にもなっていて当時僕も読んたが、それは「地方」に住まい
生きそして書くということが「世界」というものとどう繋がりそれに感応しあるいは抵抗するのかといった、
人間の根底からの問いかけの態度であったと僕は理解していた。
いまではすっかりそんな「地方」の試行も衰弱し、人の動きや金の多寡に右往左右一喜一憂する日々である。
地方は「元気」なほど、数や金に裏付けられているのだから。それを大小無数のリトルトーキョーであったり
その陰画と言ってもいいだろう。
そんなこんなで、地方にあってそれを語ろうとすればすぐさま自分というものに、より矮小化されて
跳ね返ってくる。じゃあみんな「地方の魅力」を発信すればいいじゃないか、と言われる。
その通りだろう。誰に向けて語るのかということは、すこぶる合理的なことだけれど。
でも「どこでどんな方が」という分からなさへの想像は、じつはそのような合理性とはことなるけれど、
どこか書くことや考えることの射程を、もっと伸ばしてくれるような気がするのだ。
だからこうして、取りとめもなく当てもなく書き綴っているのです。
どうぞこれからも、お付き合いいただければ幸いです。