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美術折々_297
コトバは乱れるのか
先日、文化庁が発表した『国語に関する世論調査』によると「国語が乱れている」と感じている人が 20年前に比べて減り、「乱れていない」と感じる人は逆に増えているという。
そこには2000年以降の意識の変化も当然あるだろうし、SNSなどで顕著なように様々なコトバの表現を受け入れる傾向が強まったとの専門家の見方もある。
この「国語」という概念もまた明治以降の日本という近代に生まれたものであるから、当時の日本人にとっては「日本語」という言語を話し書くという「国家意識」の始まりでもあったから比較的新しい意識のありようでもあった訳である。まあそれはそれとして。
そのような国語がいま乱れているか、いないかというのは僕にとっては、じつはどちらでもいいのだ。そもそも「乱れる」というなら、どこまでも日本語規範というものが厳密にあって、それは永遠に崩れてはならないことになる。そんなことはあり得ないのだから、言葉というものは時代と共に変化し変容していくのだ。
それを乱れたと言って嘆き悲しむだけでは言語そのものに置き去りにされるだけだ。何が言いたかったかというと。すでに乱れているかどうかさえ問題ではなくなった、ということではないのだろうか。学校教育や家庭の教えがどうあろうと、「国語」の内実というものは勝手気ままに略され作られ話され更新されていると僕は思っている。それが生きた言語ではないのか。
つまり、こうあるべき「日本語」などないのである。日本国内でしか通じない「国語」。すでに日本語という虚構もまた崩壊しているのである。日本という近代以前にあった、無数の「村」や「方言」の多様さの中にあった言葉を思い起こしてみるればいい。日本語以前の、国語以前のコトバを。
「国語が乱れている」と感じ、あるいは「乱れていない」と感じるのも、僕には同じことに思われる。そこには流動し変形し続ける「日本語」しかないだろう。