元村正信の美術折々/2020-09-14 のバックアップ(No.1)


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美術折々_295

アスリートとはそこのあなた

スポーツ総合誌の『Number』1010号が、なんと将棋の藤井聡太王位・棋聖を特集し話題になった。なにしろスポーツ・グラフィック誌が「将棋」を取り上げたのは異例のことだからだ。そのおかげで企画は大ヒットし、すでに23万部を超えている。

将棋はスポーツか。棋士もアスリートか。という声は当然だろう。勝負勝敗を競うという意味では、確かにアスリートには違いないが。いつもはスポーツ誌など見ない将棋ファンをはじめ、藤井人気もあって一般読者も購入しているという訳である。

同誌創刊40周年で初の将棋特集は、ポストモダンの結果としての「何でもあり」の表現が、スポーツ以外の分野でもドラマさえあれば、このような形でも可能だということを証明して見せた。もはやスポーツであるかどうかではなく、ゲームでもクイズでもあるいはカジノでもいいのだ。競い合うバトルがあればいい。サバイブする生き残りを賭ける闘いがあればいいということか。

じゃあ、アートもアスリートではどうだ。作品の価値を勝敗で決して見ては。公募展だって競っているじゃないか。アートには「勝負」の基準がないのではない。 そういう形式を採用していないだけだ。何かに選ばれるということは、すでに勝者なのである。

だが「芸術」のやっかいなところは、たとえ負けても負け切っても美でも醜でもない、まったく別の〈価値〉があるというところだ。棋士・藤井聡太が以前、あるインタビューで苦手な教科はと聞かれ「美術は鉄板ですネ」と言ったのは、そこには「勝敗」という価値がなかったからだろうか。

それでも芸術は、すぐれた頂点とゴミのような底辺というピラミッドを仮構し構成しながら、勝敗というものをどこか隠蔽してしているのかも知れないが。いずれにせよ、アートもやがてアスリートといわれる日がくるのだろうか。