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美術折々_291
さて何を食べよう
もうひとつ、SNS上でみつけた話。
それは「人生を絵(を描くこと)に賭けて食っていけるのか?」という問いに、画家の千住 博が「じっさい、売れてなくて飢え死にした画家がいると聞いたことはない」と答えたという。たとえ絵が売れてなくても、飢え死になどしないということだろう。この話の出どころが不明なのでその真意と真偽のほどは定かではないのだが。これに美術批評家の布施英利が「美術なんかやって、“ 食っていける ” のか問題」とコメを付けていた。
まあどちらもどちらだと思う。「売れてなくて飢え死に」という時代錯誤的喩えにしても「美術なんか」という見下し方にしても。僕なんかからすると「絵に人生を賭ける」というのは、近代絵画が生んだ職業画家の笑えない妄執にすぎないし、「食っていけるのか」問題なんて、「美術」の問題でも何でもない。
そもそも人生を賭けることなど、そう毎度まいどあっては身が持たないではないか。たとえ「絵」を描くことを一生続けるにしても、食う方法はいくらでもあるのだし、描くことを美術を、ことさら職業化してどうしたいのか。またこの現在に「飢え死に」するというのは、ひとり暮らしの病気がちの大人以外は、ほとんど自死しかないだろう。
人の生業などというものは、ひとそれぞれである。それを業種によって芸術家や画家などと分けて、それで食っていくことにことさら職業化することは、美術や芸術を問うことと何ら関係はないし、それはまた別のことである。美術をやっていようが、芸術に関わっていようが、何かを賭けて食うことなどほとんどあり得ないだろう。
なぜなら「食う」ことは、いちかばちかの勝負ではないから。日々の糧であり日常そのものである。人生が勝敗で左右される連続の勝負師やギャンブラーだって食うことは日々そのものだ。つまり「食っていけるのか」という問いに対しては、「心配御無用」と返せばいいのだ。そもそも自分がいったい何に賭けているかなど、そうたやすく他言できるものではないのだから。
「飢え死に」するか、しないかは自らが選び取るものだ。何かに賭けることも食うことも、けして〈芸術の問題〉ではないのである。さあ夕食は何をたべよう。