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美術折々_261
「芸術は続くのか」と問うこと
久し振りに「美術手帖」を買って読んだ。その4月号は、緊急特集「『表現の自由』とは何か?」
特にサブタイトルの「芸術を続けるためのアイデアと方法」という題にひかれて。
内容は「あいちトリエンナーレ2019」の中の「表現の不自由展・その後」に端を発した例の事件を軸に、それによって生じた表現の自由、規制、検閲と言った諸問題を様々な提言、資料やインタビュー、ディスカッションを通して浮き彫りにしようとするもの。
緊急というには少し遅すぎる感もあるが、まあそれはいい。ただタイトルの「『表現の自由』とは何か?」に対する正面からの問いを期待するとたぶん裏切られることになるだろう。これは「表現の自由」を問うというよりも、むしろ美術における今日的不自由さの問題を検討した多角的な証言集、とでも言った方が近いのではないだろうか。
僕が冒頭でひかれたと言った、副題の「芸術を続けるためのアイデアと方法」、本文中では「美術を続けるための」とも言っているのだが、ひかれたというのは、じつは引っ掛かったということなのだ。では何が引っ掛かったのか。
それは「続けるための」という時、芸術あるいは美術を目的化してはいないだろうか、という危惧を感じたからだ。続けるための芸術ではなく、はたして「芸術は続くのか」と問うことこそ「表現の自由」とは何か?に対する応答となるのではないか、ということなのだ。もちろん若い世代にとって「続ける」というのは、これから長く生き残って行かねばならない切実な問題であるのも分かる。だから「芸術を続けるための」になるのかも知れない。
だが僕のように「芸術は続くのか」と問うことは、不自然なことなのだろうか。なおも「芸術はありうるのか」と僕はいつも考えている。芸術は美術は、けして自明ではないからその概念もまたつねに揺らぎ拡張しているのではないか。だから芸術は目的化、道具化してはならないのだ。古代や古典のみを芸術化し遺産化してはならない。未来の芸術を見てみたいからこそ、「芸術は続くのか」と問いたいのだ。
そして「表現の自由」を問うまえに、なぜ、表現は不自由なのかをかんがえる必要があるはずだ。そう問う必要があるはずなのだ。