元村正信の美術折々/2020-02-25 のバックアップ(No.1)


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美術折々_258

全世界は正しいか

このあいだの昼下がり、屋根裏 貘の小田 満 氏とカウンター越しにいつもの芸術がらみの話をしていて僕の作品の話題になった。氏曰く元村の絵がレイ・ブラッドベリが書いたSF小説「火星年代記」で描かれた火星の光景に似ているというのだ。さっそく氏から借りて読んだが、そのような火星の美しくも廃墟化した山河や天空の
光景と僕の絵とは違うように思えたのだが。

それでも、いくつもの警句がちりばめられたこのSF小説の古典的名作は、70年前のものだが今だに人類にとっての科学と信仰の葛藤として読める。その中でもさりげなく書かれた次の言葉の重みはどうか。
〈全世界が正しいと思っているとき、一人の人間が正しいということはあり得るか〉。

僕にはズシンときた。ここにも信と不信の葛藤、人間の魂の救済は可能なのかと問われている。ただ僕はこれを芸術の価値への、作品の評価に対する問いとして受けとめた。すべての人が、そう「全てのひと」が、ある芸術をいいと思っているときに。世界に一人だけ、たとえば僕だけがダメだと思う芸術は、あり得るのかと問うことができる。あるいはこう言い直すこともできる。世界のすべての人がダメだと思っている芸術を、だれか一人だけが、価値があると最後まで言い切れる芸術はあり得るのか、と。

レイ・ブラッドベリの警句は、だれもが異なる「ひとりの人間」であるはずなのに、なぜ地域の、社会の、国家の、世界の、といったフィクションつまり虚構や擬制のもとに同一化、多数化され正当化、正統化されたそれらが、さもあるかのような「人間」全体だとされるのかという問いと解釈することもできるのだ。それを「芸術」全体だと言うこともできるだろう。

しかしいち度でも、たった「一人の人間が正しいということ」がもしあり得るとしたら、それは同時に「全世界」が否定されたことになる。つまり世界は成り立たなくなる。それは絶対にあり得ないから、たった一人が正しいということはあり得ないという結論になる。だが、「だれもが異なるひとり」が真実なら、誰もがいつも「たった一人」ということにはならないか。

だから僕は、レイ・ブラッドベリの問いかけにこう答えよう。
《全世界が正しいと思っているときでも、一人の人間だけがそれとは反対に正しいということは、
いつでもあり得る》と。じつは僕が「芸術」というものの役割に期待していることは、こういうことなのだ。

もしかしたら小田 満 氏が 僕の絵を、ブラッドベリが描いた火星の光景に重ねて幻視したのは、
そういうことなのかも知れないと思った。

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