元村正信の美術折々/2019-12-29 のバックアップ(No.1)


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美術折々_248

倫理と芸術の未来

批評家の佐々木 敦が「そもそも『文学』とは定義が困難な概念だが、それは今やますます『ある種の小説』としか言い様がないものになってきている」(西日本新聞 2019年12月26日付 朝刊文化面『文芸時評』)と書いていた。ここでの「ある種の小説」とは、それ自体文学として成立しているかどうかが問われることなく、ただメディアや文芸作品という枠組みの中で書かれ発表され流通している小説だと理解するなら、そんな小説としての「文学」はやがて消滅するだろう、ということになる。

いっぽう私たちの美術、芸術もまた未だ定義しえないものだが、この言い方を借りれば、同じように芸術が「ある種のアート」としか言えないものになってきていることに違いはない。アートをどう活用し利用し取り入れるにしても、その当の「アートを」既成のものとせずに、これから生まれるかも知れない未知のものへの〈不安〉がそこには欠落している。それでは「アート」もまた消滅することになるだろう。

未知というなら、いま六本木の森美術館で開催中の「未来と芸術展」(2020年3月29日迄)は、AI(人工知能)の活用によってAIそのものと人間との関係あるいは表現は創造は、どう拡張していくのかを提示しようとする展覧会だ。ここにあるのはあたらしい「ある種のアート」なのか、それともアートを拡張し逸脱し超越した、先端テクノロジーによってアートが廃絶された未来の予兆なのか。

それともその時「アート」はどのように必要とされているのだろうか。この展覧会名が「未来のアート」でも「未来とアート」でもなく、「未来と芸術」であることは何を示唆しているのか。もしかしたら未来にアートはすでになく、アートの崩壊の先に、AIの未来は高度な《芸術》という再翻訳語を準備しているのだろうか。

「未来と芸術」。この〈と〉が意味するものは存外、黙示的なのかも知れない。未来と芸術は別のものなのか。しかしそれでもそのときの〈芸術〉とは一体どのようなものだろう。僕なら「未来と芸術」を、「倫理と芸術の未来」と言いかえて、はるか先の未知なるものを問うてみたい。