元村正信の美術折々/2019-12-11 のバックアップ(No.1)


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美術折々_245

芸術は脅えているか

芸術に限界というものはあるのだろうか。あるいは芸術の終わりというものはあるのだろうか。
私たちがポスト・ヒストリカルにこんなことを考え問うようになったのも、そもそも「芸術の始まり以前」を問い、さらには「芸術の自律」や「芸術の概念」を問うてきたからには違いないが。リオタール的に言うなら「大きな物語」が終焉し、モダニズムからポストモダンそしてグローバリズムへと「芸術」もまた例外なく晒されてきたということだろう。

だがそのことによって芸術の「未来」までもが否定されたことにはもちろんならないし、それはアーサー・C・ダントーが言ったように「もはやこれ以後に芸術は存在しないであろうという主張ではなく今後ありうる芸術は、芸術の終焉のあとの芸術である」(『芸術の終焉のあと』三元社、2017)というまさに近代の終わったあとに、なおも芸術は可能だとしてもどう可能なのか、逆にいえばいかにその不可能性を生きられるか、ということだった。

じつは僕はそんな考えに素直になじめないできた。むしろ「芸術」というものの無力や衰退を感じつつ、あるいは越えてしまった限界の現状を折につけ目の当たりにしながら。表現の自由と不自由を巡る問題もそうだった。たとえば、一方で賑わう「アートシンキング」。いつものようにアートの根拠は不明なまま、ビジネスの限界はアートで超えろ、あるいはアートの限界はビジネスで超えろ、というような自己表現=創造社会であるような活性化のためのアートプロジェクトにも、うんざりしている。そんなことを考えながらの先週、突然の訃報だった。

12月4日にアフガニスタンで殺害された中村 哲 氏は、医師の延長に井戸掘りや用水路の建設はあると、かつて新聞手記の中で述べていた。これはつまり彼が医師としてできることの無力、限界を身を持って感じていたからこそ、30数年来、彼のなかの医学はかの地でこのような形で拡張されたのだと僕は勝手に思っている。アフガンにおいて「復讐は伝統的な掟である」、「私もまた死者のまなざしに脅える者のひとりである」(『ペシャワール会報』 No.4 、1994年10月26日)と中村 哲 氏はかつて記していた。「人間がいかに残虐たりえるか」そのことを彼は知った以上、それが自分の身にいつかは降りかかるであろうことも充分に覚悟していたはずだ。

それでもなぜ彼は最後まで「医師」だけでは済ますことがきでなかったのだろうか。少なくともそこで彼が「見た」凄惨や残虐が、医師という無力、限界を超えたのではないか。死者のまなざしとは、死を前にしたものの眼差しである。中村 哲 氏は「見られて」いたのである。ここには、いま彼に向けられる世間の英雄視、単純な戦争否定や人道的献身として讃え美化する声などつけ込む余地はない。

翻ってこのことは、私たちの「芸術」が一体どのような限界に立ちすくみ、死の床に誘われているかを考えれば、私たちもまた「脅える者のひとり」でなければならないと、学ぶことができるように思える。