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美術折々_244
深い〈有限性〉にみちていながら
もう5、6年まえだったろうか。真夏の汗ばむ昼間に、突然1cm以上の雹(ひょう)がバリバリと家全体を打ち付けるように降ってきたことがあった。ここ九州、福岡のことである。夏でも時折おこるというが、おとなになってからの記憶には余りない。その粒の大きさが卵くらいならまだしも、もしそれ以上の石や岩のような大きさだったら、どうなるのだろうと思い返したことがあった。
つまりいま漠然とおもい浮かべているのは、自然が超過する「あたらしい自然」の突然の到来のことだ。きのうは夏日で明日は真冬日だったりする、これまでなら思いもよらない自然のありよう。それは私たちの自然に対する観念の限界でもあるけれど。むろん自然というものは人為のおよばないものだと分かってはいるはずだし、人間は自然の一部でありながらまたそれでも無為なる自然に対しては、傲慢なほど反自然的にどれほどの人為を及ぼしているかを思えば分かるだろう。
でも大地が張り裂け、どんなに荒れ狂おうと「自然」は自然だからとキケロなら言うだろうか。自然が超過するというのは確かに矛盾している。やはり人間が自然を隔てて見てのことでしかない。それでもこれから到来するであろう「あたらしい自然」の生成を、僕はどうしても〈超過〉としてしか待ち受けられないでいる。どのように慣れ親しもうと、目のまえの川も山も森も、大地も海も空も、そしてこの極東のはずれの小さな島もおそらく溶解し膨張しているのである。
ついさっきまで、あんなに穏やかに晴れ渡っていたのに、いまこの瞬間にでも、爆弾が落とされ爆発が起きるように自然は裏返り変貌するだろう。私たちの、あまりにも高度に人工的、人間的な、自然というものの享受の仕方あるいはそれへの無力さの露呈。そんな「超過」はあらゆる限度や限界を超えて、それが私たちにとってのきょうの、明日の訪れであるにしても。なぜ私たちはこの「超過」し続ける日々に孕まれた不穏を、まるで不発弾のように抱いて、その恍惚も痛苦も合わせて享受しなければならないのか。
超過し崩壊し破裂しようとするのは、自然自体かそれとも人類が達成した前代未聞の負債なのか。いずれにしろ私たちはあらゆる限度も限界をも超えて、なおも生きながらえようとしていることだけは間違いない。その先が可能か不可能かは分からないが、むしろ日々は無限ではなく深い〈有限性〉にみちていることを噛みしめながら。
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