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美術折々_243
リスクアート
ミュージシャンのブライアン・イーノが以前ロンドンで行なった講演で、芸術や文化というのは個人が「かなり極端でどちらかというと危険な感性を体験するための安全な場所」を提供するものだと語ったというが(rockin’on.com_2015.09.30)。その真偽は定かではないけれど、僕には芸術や文化というものがそれほど「安全な場所」とは思えない。それでも「危険な感性」の体験というのには、うなずけるものがある。
たとえば「危険」というものが、未来の価値の喪失や生存が否定される可能性を含むものであるのなら、
そしてそれは回避されるべきものであるなら。芸術はそのような価値の転覆や生存の危機や不確かさへの疑いとして決して「安全」を約束し実現しようとするものではないという意味で、みずから危険性を孕んでいるのである。だからイーノがいう「危険な感性」の体験とは、おそらくリスク(起こるかも知れない悪い事象の可能性)を恐れない未来への試み、勇気として理解できる。
ただリスクには、予測される危険と予測できない不確実性があるし、つねに「感性」は裸同然で無防備であるから、危険をたずさえた感性というものは危なっかしいものだ。しかし芸術というものが、既成の価値や既視感によって確定され定義されるものではなく、いまだ知られてはいないもの、未だ見ぬものによって初めて問われるものであるなら。
芸術のリスクとは、損害損失の発生や善悪の可能性以前のものとして、より潜在的でなおかつ根源的ではないのか。もっと言えばリスクよりもハザード、危険の水源としての「芸術」という予兆。予定調和や同調の声とは程遠い、むしろ安全安心を揺るがすような感性の抵抗。
もし「リスクアート」とでも呼べるものがあるとすれば、それはこの現実を揺るがずような危険をたたえた、
潜在的根源に端を発する芸術。それをここでは〈リスクアート〉と言っておこう。やがて不測の危機と危険が
訪れ歪曲されるまえに、何よりも未来に先んじて。