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美術折々_233
〈再開〉の残念さ[付記]
「表現の不自由展・その後」の展示が10月8日から再開された。おおくの方はこの再開を歓迎しているだろう。だが僕はそれに賛成も反対もしない。前にも書いたように、ただ残念なだけである。ご承知のように「再開」といっても主催者と同展実行委との条件付合意によるものだ。入場には抽選、身分確認、手荷物預け、事前プログラム説明など多くの監視・制限・制約が課せられている。もはや「検閲」などすでに死語かも知れない。
はたしてこれは「再開」なのだろうか。誰もが見ることはできない制限・制約を選ばされた私たちというもの。運が良ければ、それでよいのか。実行委はその合意で「展示の同一性は担保されてる」としているらしいが、しかしこの同一性はこの2カ月間にも渡る展示中止という巻き戻せない時間の喪失が、誰にも担保されず課せられることもないという債務なのだ。いや、私たちは負債や債務こそ悪だと教えらているから。
今回の問題で、メディアも含め多くのひとが、文化や芸術、表現というものの萎縮を語っていた。だが萎縮しているのは、私たち人間自身ではないのか。皮肉にもこうして〈生〉そのものは萎縮を受け入れながら、逆に〈死〉はどこまでも先延ばしにされ無限の労働とみずからの高齢化を強いられている。
ある大学教授が「あいちトリエンナーレ2019」への補助金不交付に触れて、交付というものは「純粋に芸術性を基準に決められるべき」だとコメントしていた。たしかに「表現」の内実は問われている。その抑圧を巡る内実は高度に分析・解析されながら。しかし「純粋」とはなにか。「芸術性」とは何か。笑ってはいけない。なにも問われてはいないのだ。問われないから風化していく。その意味で「表現の不自由展・その後」の展示中止問題は、〈芸術の風化〉という現在性を私たちに突きつけてくれたのだ。
今ふうに言えば、「芸術を忘れないために私たちにできること」。それは唯一、芸術を忘れることだ。忘却の彼方へ、みんなで芸術を追放しようではないか。