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美術折々_223
ただそこでも、自由の定義が問われている
8月1日に開幕したばかりの「あいちトリエンナーレ2019」で、いま問題となっている企画展『表現の不自由展・その後』。なぜここまで問題は大きくなったのだろう。
主催する実行委員会の会長である大村秀章・愛知県知事は、記者会見で展示中止の理由を「テロや脅迫ともとれる抗議があり、安全な運営が危ぶまれる状況だ」と述べたという。また当の実行委員会の会長代行でもある河村たかし名古屋市長は、大村県知事に抗議文を出し展示の中止を要求した。これは本末転倒ではないのか。ここでは他人事のように語られているが、いったい当事者とはだれなのか。実行委員会の会長や会長代行こそが共同の責任においてそれら不当な「抗議」に対し、まず釈明すべきところではないのか。
『表現の不自由展・その後』は、トリエンナーレの参加作家としての「表現の不自由展実行委員会」による企画で、「表現の自由の現状を問うという」展示の主旨を、その内容も含め予め行政の各段階において確認を取り、すべて承認を経て展示されたものである。つまり主催者の代表、代行であるその行政の長たちが、開幕3日も立たない内に、こぞって展示の中止を早々に決めるという自己保存ともいうべきその責任放棄は、前代未聞だろう。なにも突然「行政の立場を超えた展示」(河村たかし市長:談)が出現したのではない。この展示のためのすべての手続きが、時間をかけ行政の確認と承認を経た結果、展示に何ら問題なしということで実現したのではなかったのか。それなくして展示許可など出るはずはないだろう。
「わたしたちはどんなテロや暴力にも屈しない」といつも事あるごとに言ってきたのは、一体だれだったのか。平和国家を謳う日本。それは、それを支持する多くの国民であり市民であり、どこにでもいる私やあなたではなかったのか。原爆、戦争は反対だが、政治や経済は貿易戦争は、また別問題とでもいうのか。じゃあ、無力で虚弱な芸術文化なら問題にしてもよい対象なのか。もちろん今回の件は、アートと行政そして民間を含めた国家のもたれ合いが地域活性化の手法としてすっかり日本国内で一般化した中での、芸術祭という名の下での平和の部分的破裂なのだが。
この問題に対して3日、「表現の不自由展実行委員会」は、この「企画を、主催者自らが放棄して弾圧することは、歴史的暴挙と言わざるを得ません。戦後最大の検閲事件となることでしょう」との声明を出した。今回のトリエンナーレの芸術監督である津田大介は「日本の表現の自由が後退したかもしれない」と語ったという。
しかし「自由」は後退も前進もしないのだ。ただそこで自由の定義が問われているだけである。日本の憲法21条には「表現の自由は、これを保障する」と明記されている。だがそれはどこまでも表現〈の〉自由あるいは不自由の範囲内でしかない。そうではなく私たちは、すべての表現〈からの〉自由を、つまり表現の「内に」自由を求めるのではなく、表現に拘束されることのない〈自由〉を獲得できるかどうかなのだ。少なくとも「芸術」はそのような表現を〈超え出る〉自由を、結晶化できる可能性と不可能性を秘めているのではないだろうか。