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美術折々_220
克服し超克しようとする私たちの
「どんな自分であっても、自分自身を受け入れ、かけがえのない存在だと思えること」。
それは励ましか、それとも究極の自己愛か。これは近年もてはやされている、いわゆる「自己肯定感」というものである。ひとによっては、自己肯定感の低い人はマイナス志向でダメな人間だと決めつけるというから、スゴイものだ。
文科省も2020年度から、小中高生を対象に達成度を自己評価する新教材「キャリア・サポート」を導入するという。これは学年末などに自分の目標を達成したかについて自己評価し将来のキャリア形成を早くから意識させようとするものらしい。自分の希望や適性を把握し、自己肯定感を高めること目指すというものだ。それでなくとも不安な未来に、自分の将来の進路や生き方というものの、よき契機になればよいのだが。
しかし、そもそもじぶんが何をしたいのか、何に向いているのかなんて、そう簡単に見つかるものではない。希望や適性というが、希望や適性だけで職業や仕事が決まる訳ではない。僕などは、いまだにじぶんがしていることへの疑いや問いを抱えたまま生きている。むしろ問題なのは自己を疑えない、この「自己肯定感」のほうではないのだろうか。「どんな自分であっても、自分自身を受け入れ、かけがえのない存在だと思えること」。ここでは反省や吟味、自己批判、自己否定、自己を疑うことを疎外してはいないか。ほんとうにそうだろうか。ひとは「どんな自分であっても」いいのか。「自分自身を受け入れ」られるのなら、その結果どんなに暴れても人を傷つけてもいいのか。それは自我が肥大しただけではないのか。
人はだれしも「かけがえのない存在」であるが、では何故いともたやすく同じ人間どうしから踏みにじられたり、傍若無人に殺されなけけばならないのか。そこには極端に高められ歪められた自己肯定の結末としての破滅的な生がある。そうではないのだと、ツァラトゥストラは人間の「自己超克」を語ったことを思い出してみよう。つまり今で言うなら自己肯定感の「克服」なのである。どんな自分をも、自分自身をも、かけがえのない存在をも、克服し超克しようとすること。自分を超え出ようとすること。
自己というものにまとわりついた「価値判断」を超え出て行くことにこそ、私たちの不可能生への超克があるのではないだろうか。未だ見ぬ生の核心に触れるために。