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美術折々_215
絵画ならざるもの[その五]
この〈聖なる森〉は、ずっと前からあるにはあった。いつからかと問われてもだれも解らない。
過去をたどれば辿るほど、森は曖昧になる。だからいっそう、聖なる森は「現代的」なのだ。
だがいまその森の地下には、とてつもなく大きく快適な空洞が出来てしまっている。
だれでもが小さな入口からいつでも降りてはそこから遥か先のあるかなきかの黄金を目指すことはできるが、
かといってだれもその空洞の果てまで辿り着いたことはない。
それでも人びとは、この地下洞を地上の森と比して世俗的な親しみを込め〈利益の空洞〉と呼んでいる。
なぜ「利益」なのか。それは日々の健康と安心・安全を、楽しみと喜びや、ちょっとした悲しみも含めた、あるいは生きがいを、すべて祝祭として日常の生活の隅々にまで甘い蜜をたらしてくれる、そういう空間だからだ。
しかしそれがなぜ「空洞」と呼ばれているのか。
それは、これらの利益が仮想でありまた幻想であり仮構となって生活を支えてくれるから。
これは皮肉ではない。私たちはその埋めようのない虚しさを、多少の自嘲を込めても、競うように何よりいとおしんでいるからである。