美術折々_214
いつかこの卑劣な世界が
ここにこんなものがある。これを自分と比べてみると、どうなのだろう。
内閣府調査の定義によると、いわゆる〈ひきこもり〉を「広義のひきこもり群」、「ひきこもり親和群」、「一般群」の三つに分けて定義している。
まず「広義のひきこもり群」は、
・ふだんは家にいるが、自分の趣味に関する用事のときだけ外出する。
・ふだんは家にいるが、近所のコンビニなどには出かける。
・自室からは出るが、家からは出ない。
・自室からほとんど出ない。
・現在の状態となって6ヵ月以上の者。
つぎに「ひきこもり親和群」は、
・家や自室に閉じこもって外に出ない人たちに気持ちがわかる。
・自分も、家や自室に閉じこもりたいと思うことがある。
・嫌な出来事があると、外に出たくなくなる。
・理由があるなら家や自室に閉じこもるのも仕方ないと思う。
以上の4項目が、すべて「はい」又は1項目のみ「どちらかといえばはい」と答えた者から「広義のひきこもり群」を除いた者。
あとの「一般群」はそのどちらにも当てはまらないそ以外の者ということだろう。
僕は思わずうなるのだ。じぶんは、ほとんど「ひきこもり親和群」の一人ではないかと。いや、もっと積極的にそうありたい、そうあれば、こんなにも無残でほとんど虚偽と欺瞞で出来た社会というものと関わらなくて済むではないか。もしそれで一生を送ることができたらとそれはそれで良いのではないか。しかし、ふつうはそんな生活には耐えられないし生きてはいけない。
でもこの「ひきこもり親和群」。それは私たちが日々感じていることや対人関係の煩わしさ、学校、仕事、社会というものの息苦しさや不合理を少しでも考えてみれば、誰もがこの「親和群」と無縁なはずはないのだ。社会というものは、いつでも〈ひきこもる〉者たちを警戒するし、そういう眼差しを社会に習慣付けようとする。しかし何もなければ、事故も事件もなければ、ただ生きているのなら、なんにも問題はないはずだ。一生自室に閉じこもっていようと。社会はすでに「貧困と格差」という名で、どんな人間でも落ちこぼれていくことを容認しているではないか。
僕は思う。学校は、仕事は、社会は、そんなにいいものか。立派か。居心地のよいものなのか。もしそうなら、〈ひきこもり〉など「定義」されることもないはずだ。
それがどんな〈ひきこもり群〉であろうと、そのような定義を生み出したのは私たちの、この卑劣な世界であることだけは、間違いないと思われる。
むろん〈芸術〉だって例外なく、この卑劣な世界の親しい取引相手であることを、自覚せずには何も始まらない。