元村正信の美術折々/2019-05-09 のバックアップ(No.1)


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美術折々_208

未来の子どもたち

先日の「こどもの日(5月5日)」が、何の日か知らない子どもたちが約47%にも上るという。祝日の意味よりも「休日」であることが喜ばれる。ここにも「祝日」の形骸化、空洞化がある。総務省の発表によれば、15歳未満の子供の推計人口が4月1日現在で、前年より18万人少ない1533万人で、38年連続の減少となったらしい。
東京都のみが前年比で唯一増加し、前年と同じの沖縄県を除いて他の45都道府県はすべて減少している。ここでも東京一極集中が進む。

年間18万人減少すれば、単純計算で今後約85年ほどで「15歳未満の子ども」人口は限りなく0(ゼロ)に近づいていくことになるが。
また昨年、国立社会保障・人口問題研究所が公表した『日本の将来推計人口ー平成29年推計』(2018年3月31日発行)をみると、総人口に占める15歳未満の子どもの推計人口は2015年では約1594万人だったのが、100年後の2115年には約259万人になるであろうと予測している。つまり年平均約13万人減少して行くとすれば、さらにその20年後の2135年にも15歳未満の子供は限りなく推計では0(ゼロ)に近づいていることになる。想像できるだろうか。むろん同研究所が言うように「われわれ人間は、しばしば望ましくない予測がその通りに実現しないように行動するのであるから」だとしても「今後に何が起こり得るかを示すことを目的として」の予測であることだけは間違いない。

この2019年5月現在からつまり〈116年後〉の日本のことを、私たちはいまこうして想像している訳だ。それは、未だ生まれてはいない〈未来の子どもたち〉が死を迎えるころのことである。ながく言われ続けながら少子化と超高齢化に、虚偽と欺瞞を日常化・常態化させたまま、なんの手立ても施策も打てなかった国家というものの余りにも大きな負債は取り返しがつかない。将来、子どもを宿すであろう子どもたちがほとんどいない国。これは想像しがたいのだが、国家そのものの崩壊である。平成とか令和とか改元などに、浮かれ便乗するどころの話ではない。当然この国の権力も、未来の国家像を必死に模索していることだろう。おそらくどんな形であれ日本という「国家」は残ると思う。

では、どんな形でか。人口の増減が出生・死亡それに国際人口移動(移入・移出)を合わせた数によって決定しているのなら、そしてこの国の人口というものが、日本に定住する(外国人を含めた)総人口によって決まるのなら。おそらく移入、移民を含めた〈外国人〉たちがこの国の多くを担うであろうことは、僕のような者でも想像がつく。限りなく推計0(ゼロ)に近づく子供たちの希少な国は、これから100年もしない内に、多民族国家はいうまでもなく多国籍化した名実ともに多様な「国家」として日本は変貌していくに違いない。そのころには〈日本〉あるいは〈日本人〉という概念も大きく変わっていることだろう。日本で生まれ育っていく外国人、いや新しい《日本人》たちによって。