元村正信の美術折々/2019-04-01 のバックアップ(No.1)


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美術折々_201

〈生き方〉としての仕事

きょうのような冷たい風に向かって咲く花とともに、いろんな思いと欺瞞をいだいて新しい年度も始まった。
昨年、70年ぶりに改正された「漁業法」といい、「働き方改革関連法」といい、次々に民間企業の参入と終わらない成長を促すため法の名のもとに規制緩和と規制強化が表裏一体となって進行している。漁業権が奪われ、漁師も次々と民営企業化され漁業そのものが崩壊してゆくに違いない。働き方改革関連法もそうだ。いまや日本の非正規社員率は40%にまで達している。やがて「正社員」という概念もなくなるだろうし、大手企業をはじめとする正社員の副業解禁は、将来の総契約社員化、総フリーランス化の始まりだろう。じっさい日本のフリーランス人口はこの3年で2割増え、1119万人となったらしい。ますます企業は働き方を時間を身分を保証・拘束しない代わりに、個々人の能力・業績・責任に応じて価値評価し、雇用契約を結ぶようになって行くだろう。

日本的な年功序列・終身雇用制が崩れて久しい。つまり、これから働く個人というものは、会社ごとではなく、たったひとりっきりでグローバルな世界市場の荒海に投げ出され、放り込まれたということである。どこで生きるも死ぬも個人しだい。さあ稼げ勝ち抜けという訳だ。さらにまた少子高齢化によるシニア世代の定年なき生涯現役化や外国人労働者の受け入れを拡大する「改正入管難民法」も施行された。加速化するAI(人工知能)の日常化は、経済やビジネスそのものの構造を変容させようとしている。新たなビジネスが次々と生まれ、その一方でこれまでにあった仕事や職業もますます失われて行くだろう。必要な少数の人間と多数のAIによって組み替え直される〈人間社会〉の到来。

では私たち芸術やアートに関り、またこれから関わっていこうとする若い人たちの働き方、労働、仕事、活動はどうなのだろう。特に作家、アーティストとして生きていこうとすれば、制作や拘束時間からおのずと不安定なバイトやフリーター、フリーランスを志向せざるを得ないというのが一般的な傾向だ。特に若い世代ほど、アートで食って行くこと、行けること、職業アーティストへの願望はつよい。それは当然だと思う。契約ギャラリーやアートフェア、アート市場への積極的な参加・出品・プレゼン、セールス。それはもう今時のビジネスパーソンたちと何ら変わりはない。作品が売れること、制作することが仕事になることは歓迎すべきことだし、だれもそれを否定などしないだろう。僕もそうだ。だがこれは非正規雇用という立場で働かざるを得ない人たちのいまの不安と同じものなのである。

ますます非正規化、フリーランス化する社会にあって、しかしなぜ芸術やアートのみがそれに逆行するかのように職業化・専業化、いわばアートの正社員化を志向するのか。食えないことが当たり前だった仕事が、労働が、活動が、ビジネス化する。正面から社会に参画し社会化されていくことに違和感はないのか。

だからこそ僕は立ち止まって見るのである。あらゆるビジネスがアート化し、アートがビジネス化するこの時代。つまりビジネスはアートであり、アートはビジネスなのだという。そこでは作品は商品であり、商品は作品であり、消費物としての商品価値そのものなのである。たとえばエロ雑誌なきコンビニに、消費期限付きの若手作家たちのアートブックや小品が並んでいる光景を思い描いてみよう。いや百均でもいい。気分や欲望の交換によって日々入れ替わる商品と同一化した芸術の日常。芸術とはこういうものだったのか。

では、こんな生き方はどうだ。この3月末、長崎原爆資料館々長を最後に長崎市役所を退職した小説家で芥川賞作家の青来有一(60)が、新聞のインタビューでこんなことを言っていた。じぶんは「職業ではなく、生き方として」の作家を選んだのだと。これは長年、公務員でありながら小説を書いてきた自分というものを表現してのことだ。分かりやすいな、と思った。これを芸術に置きかえて見ればどうだろう。職業ではなく、生き方としての芸術家。職業ではなく〈芸術家として生きていく〉ということ。であれば、どんな仕事をしようがどんな労働であろうと、社会的非正規であろうが、そこに「作品」は生まれ「芸術」は生まれるはずだ。たしかに社会からは不明の身分と思われ誤解を生むかも知れないが、なんら恥じることなどはない。ただここにも難題はある。つまりこのような生き方を、一生貫けるかということだ。人生100年時代を生きる「100年芸術家」という、100年に渡って芸術が問われ続ける残酷さの中を。

でも青来有一の小説家としての生き方は、若い作家たちが芸術の職業化・専業化・正社員化をを志向する中にあって、つかの間の若さを消費させ摩耗させるだけのアーティスト願望とは異なる生き方を、示唆してくれているのではないか。「職業ではなく、生き方として」の芸術があるんだということ。ありうるかも知れない《芸術》とは、生き方によって積み重ねられ体現され結晶する「作品」であり「思考」なのではないだろうかと、改めて考えさせてくれる。