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美術折々_178
商品とゴミ、あるいは作品[付記]
前回、ある若い作家の「商品とゴミはどう違うのだろう?」という問いに対し、僕は「商品とゴミと作品に違いはないけれど、何を見ないことにするかというその一瞬において、どれかが際立って見え他のものが見えなくなってしまうだけだ」と書いた。
ほんらい、商品とゴミと作品はそれぞれまったく別のものであるというのは、一般的にはそれぞれの価値を言っているのだが、この「価値」というのもきわめて相対的なものだ。ある人にとっては金銭的に価値あるものであっても、別の誰かにとってはまったく金銭とは交換できないものであったりゴミのようなもので、交換にすら値しないものだったりする。いやゴミもまた金銭と交換しているのだが。つまり「商品とゴミと作品」の関係は、当事者にとってもっとも大切なものを第一のものとして評価し、価値付けているというだけなのだ。
それでも「作品」の価値判断というのは、さらに厄介だ。とくに問題が〈芸術〉に関わろうとするものなら、もっとも厄介なものとなる。なぜなら〈芸術の定義〉は、いまだ定まってはおらず絶えず問い直しを要求するからだ。それとおなじように〈芸術の概念〉もまた、つねに問われ続けている。それに虚偽、真偽、真贋の闇、そして詐欺といった犯罪まで絡むその裾野は広大だ。それらを踏まえれば「芸術の価値」というものは商品・ゴミ・作品の、そのどの価値を持って断定したとしても結局、仮象としてしか現れないだろう。
それだからこそ、どんな時代にあっても、「芸術とは何か」が問われるべきなのに、ほとんどますます「芸術とは何か」が問われることなく、すでに「評価されたもの」が、作品として芸術として既成化していくのだ。これでは「商品かゴミか作品か、あるいは芸術」という仮設的で恣意的な価値だけが横行するのも当然である。
真偽、真贋と言ったが、ほんとうはその向こうに〈真正〉なるものがさらにその遥か先の暗闇のなかで、いつも私たちを待ち受けているはずだ。〈芸術〉という微かな光りをたたえた、未来というものがありうるかも知れないものとして。