元村正信の美術折々/2018-11-12 のバックアップ(No.1)


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美術折々_176


そぼふる雨の朝


貘での個展も昨夕刻で無事終えることができた。何回やってもそうだが、個展というのは作品が完成したりセッティングを終えた時よりも、エンディングを迎えすべてを撤収しおえた後のひとりになった時の、ある種の空白のような虚脱感の方がむしろ逆に安堵するものだ。今朝のような静かな雨はとくにそうだ。

それでも肝心の「作品」はどうだったのだろうか。

20数年程前にかつて「現代美術」というものがあった頃のような〈難解さ〉はどこを見回しても、もうほとんどすでにない。もちろん難解さが良い訳でもなんでもないが。あるのはただ、分かりやすさ、親しみやすさ、楽しさ、あるいは驚き、発見、学びや賑わい、起業や地域活性化のためのプロジェクトそして共有ばかりだ。閉塞感は笑顔を浮かべ、手を変え品を替え私たちをあざむき、もてなしてやまない。

では、ひとつの作品が〈分かる〉というのは、どういうことなのか。分からなければダメなのか。分からないものを、わからないまま見る、凝視する、経験する、とまどう、困惑する、動揺し続ける、などなど。

分かろうとする必要などないはずだ。もし心に引っ掛かる作品や出合いというものがあるのだとするなら、それは見たじぶんの中に、その後も何かを持ち越すということなのではないか。
できうれば、僕のつたない作品も少しでもそういうものであるならと思いつつ。そぼふる雨の朝に。

今回もわざわざ見に来ていただいた方へのお礼をまず、このブログをかりて申し上げておきたい。
お会いできなかった方も含めて、本当にありがとうございました。

これからもどうぞよろしくお願いいたします。

元村正信