元村正信の美術折々/2018-08-22 のバックアップ(No.1)


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美術折々_163


芸術とは何か、のために(3)



かつてアドルノは『美の理論』(河出書房新社、1985年)の中で、「芸術は、社会を最も極端な形で拒否する場合においてさえ、社会的本質を持つものであって、こうした本質が同時に理解されることがないなら、芸術は理解されたことにはならない」と語っている。

現在のように「アート」にしろ「芸術」にしても、そのありようを社会とのつながりやコミュニケーションの方法として理解し、社会との共同性によって実現されるものだと思い込み、自らをまず肯定してかかり既にあるものとしておかないと社会に認知されない、「社会との関係」が成り立たないと錯覚している人々にとっては芸術の制作を巡るものが、アドルノが言ったような「作られたものそれ自体ではない」ことや「存在せざるものが芸術における真実にほかならない」ということが、見えない不確定な現実への異議にみちていることなどきっと思いも寄らないだろう。

〈芸術が生まれる瞬間〉というものは繰り返される日常にあって、じつは誰からも気づかれずに声をあげているものなのだ。その声は、この現実というものを否定的にくぐり抜けて初めて発せられる〈声〉なのである。そしてまたその声は、アドルノがいうように「自己自身に対してさえ歯向かう」能力を持つものなのだ。自己にさえ歯向かうというのは、危険きわまりない。しかしそのような危険を踏み越えずして、この世界の不全感や歪みそして虚偽にあらがうことなど出来やしないし、ましてや〈芸術が生まれる瞬間〉に立ち合うことなどできはしないだろう。

じつは私たちは、だれもがこういう〈瞬間〉と出合っているはずなのに。何かに気づくということは、そいういうことではないだろうか。
それは「芸術とは何だろうか」という素朴すぎる問いこそが、芸術をまさに〈芸術〉として際立たせることになるのだから。私たちは、アートや芸術に「何ができるか」を問うよりも、この非合理きわまりない〈芸術〉という理解しがたきものへの理解にさいして、何よりまず自らをあけ開くことが必要だろう。