元村正信の美術折々/2018-08-14 のバックアップ(No.1)



芸術とは何か、のために(2)



たとえば、アートと人をつなぐ、アートと地域をつなぐ。あるいは芸術と市場の関係、芸術と労働の関係でも
いいのだが。では、こういう時の「と」とは一体何なのだろう。何かと何かの共同性や並立あるいは両者の関係を
表そうとするとき「と」は多用される。

しかし「アート」にしろ「芸術」にしても、それが何なのかをいまだ定義しえないでいるものを、私たちが他の何か
との関係において語ろうとしたり考えようとする時。「と」を用いたとたんに、「アート」「芸術」の定義は曖昧な
ままそれが何なのかを留保したまま、それを問うことなしに社会との「関係」のプロセスあるいは成果の方に、
私たちの関心は向いてしまう。つまり「アート」も「芸術」も、アーティストも芸術家も、既にあるものとして、
ひとまず横に置いたまま「アート」や「芸術」と称するものの力よって何か別のものと協同しよう、新しいものを
創造しようということになる。

例によって、それでいいではないか、と言われればそれまでなのだが。だが、僕はそうは思わない。
「芸術とは何か」を問おうとしないままアートを、芸術を、既視化し既成化してしまうことは、危ういことだ。
既視感からこぼれ落ちるもの、誰も気づかないもの、だれも見たことがないものにこそ、〈芸術〉というものの
不可能生も可能性もあるのではないか。

ARTは、芸術は、社会との関係によって生起し存在するのではない。ARTあるいは芸術は、すでに社会を内包して
いるのだ。だから芸術は、人も地域も商品も、市場も労働も内に含み持つものである。〈芸術〉とは、私たちが思
う以上にじつは広大な領野を持っているのだ。ただその領土が誰にも見渡せないだけなのだ。なぜなら、〈芸術〉は
いまだ一度たりとも確定してはいないから、ほんとうは誰も触れてはいないし見てはいないのである。

そのように危ういものを、既視化し、既成化したものを懐柔し過ぎぬように関係者の方々はくれぐれもご注意を。
何度でもいうが、抵抗する感性のみが結晶するのだから。