元村正信の美術折々/2018-07-16 のバックアップ(No.1)


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美術折々_157


僕からすれば「親不孝通り」最後の夜とでも



福岡市中央区天神3丁目と舞鶴1丁目を右と左に分かつようにして、昭和通りと那の津通りをつなぐ通称「親不孝通り」。
ご存知、屋根裏貘とアートスペース貘の前のあの通りである。7月初旬、この通りの舗道の樹木がことごとく撤去された。
高く太く大きく茂り樹齢を重ねたポプラ並木も、一本残らず切断され根こそぎ引き抜かれてしまった。なんという。

いま昼間にこの通りに立てば一目瞭然だが、細い通りの両側に飲食関係の古い雑居ビルなどが立ち並ぶだけの剥き出しの、味も素っ気もなんの風情もない殺伐とした通りになってしまったのだ。明るくなった通り沿いはこれからタイル舗装をやり直し、歩きやすく小ぎれいな歩道に生まれ変わり、さらなる賑わいを誘導しようとするのだろう。

僕がこの通り沿いの路地裏のあちこちに足繁く通うようになって、もう50年が過ぎている。高2の美大受験の予備校の頃から始まり、酒を飲み覚えたのもここだし、女の子を誘ってはどこかの店に紛れ込んだのもそうだ。そして1976年暮れのアートスペース貘のオープン以来、今もこうして変わらずこの通りを徘徊しているという訳である。しかし、通りは丸裸にされて痛々しくさえある。あっけなく無残というしかない。

そうやって見えない力が、それでも公然と突然のごとく強引に、ひとを町を、引き裂き切り裂いては別のものに作り変えてしまう。何もなかったかのような顔をして、〈風景〉はそうやって絶えず更新され偽造されて行くのだ。僕はずっとこの「親不孝通り」という名がキライだった。じぶんの親不孝をいつも言われているような、座りごごちの悪いそんな俗称だったから。もうそんな親不孝もこれで充分だろう。サッパリと「親不孝通り」よ、さようならだ。またあたらしい通りの名前を付けようではないか、恥ずかしくも眩しい名を、何度でも。

僕らが知らないもっとむかしは、この辺りは「万町」をはじめ「材木町」「鍛冶町」といった旧町に分れていて、きっとのんびりしたのどかな門前の職人町だったのだろう。その面影は、通り近くに点在する幾つかの大きな寺に感じることもできる。

この通りから東西に入る何本もの路地。いまの猥雑で薄汚れた町そのものを僕はけして嫌いではない。オシャレさとも無縁な、居酒屋やクラブ、バーがひしめき、昼よりも夜が賑わう町だ。でもこうして樹齢を刻んだポプラ並木も根こそぎ無くなったいま。赤裸々になった通りを、それでも通うのはに、ひとえに「屋根裏貘」と「アートスペース貘」があるからだ。

天神3丁目交差点の角から北へ右筋の三件目、今夜も細く急な階段を駆け上がって「貘」の扉を、あけて見よう。