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美術折々_145
ありふれた〈風景〉の未踏の先に
いまアートスペース貘で開かれている、小島拓朗展「landscape」。
小島は、ことし3月に佐賀大学大学院を修了したばかりの24歳。作品はいずれも木製パネルに綿布、白亜地、油彩で描かれた絵画だ。タイトルの通り「landscape」、風景を描いたものである。見られた方はむろん、DMや画像等でもわかると思うが、画面はみな大小のビルが建ち並ぶ風景を場所や視点を変えながら俯瞰し、それらを切り取るように描写したものだ。
ただここに描かれているものはみな、例えば東京や香港、ニューヨークといった膨張し続ける巨大都市の超高層ビル群ではない。むしろ日本の地方の中核都市ならどこにでもあるようなビルが密集した光景なのだ。つまり
大都市のスタイリッシュな華やかさやエネルギッシュな賑わいとは異なる、穏やかさあるいは静けさや寂しさ
さえ画面には漂っている。いま現にそこで人の営みは繰り返されているはずなのに、どこか抜け殻のような都市の「風景」なのである。
もちろんこの不気味な静寂は生きものが、つまり人間がまったく描かれてはいないこととも無関係ではないの
かも知れない。おそらくこれらの絵画は、自らが撮った写真をもとに描かれていると思われる。いっけん細部にわたる写実的な手法ではあるけれど、むしろこの若い画家の試みは、徹底したリアリズムを追求しようとするのではなく逆にそのような方法とは距離を取りながら、そのリアルさを否定的に描いているかのようにも見える。
だからそこには虚実を巡る、ある種の不均衡や不安、不穏というものが現れてしまっているのではないか。
言ってみれば、これらのありふれた風景の隅々にまで〈虚構〉は充ちているということだ。それは取りも直さずこの時代の〈空虚〉さを、この若い画家が鋭敏に感受しているということでもあるのだろう。
これらの風景を小島自身は、私的ではない「匿名の風景」という。ではここにある「風景」は、いったい誰の、だれにとっての風景なのだろうか。この風景を見ているものが特定されない、だれが「見た」のかは明らかに
されない。
では彼はどこにいるのだろう。この「風景画」を描いたのは、確かに「小島拓朗」でありながら。おそらくここでの「匿名の風景」は、どこにでもあるなんの変哲もないありふれたビルの密集を、だれもがどこからか見て
いる風景だということになる。
だからそのことが〈空虚〉なのだ。だれもがどこからか見ているという経験。しかし誰もが見ていながらだれも見てはいない。それが「私」でなくてもよかったのなら、この私はいったいどこにいるのだろう。華やかさも
なく賑わいからも取り残される都市というものの寂寞感が私たちを包み込む。もしかしたらここに広がっているのは、ひとの体温を欠いた廃墟なのだろうか。
これらの絵画を「そのリアルさを否定的に描いている」と僕は先に言った。だがそれを彼自身がどこまで自覚的にそうしているかは分からない。しかし彼の絵はそう思わせるほどに、リアリズム批判をはらんだ絵画の可能性を予感させるのだ。
できうればこの若い画家が俯瞰しようとする〈風景〉が、私たちが いまだ見たことのない、未踏の絵画として
描かれんことを。
(同展は 5月6日[日]まで)