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美術折々_140
見ることの可能性と不可能性 (1)
ご存知のように、4月1日から日本の酒税法上のビールの「定義」が変わった。これまで麦芽比率67%以上だったのが、一気に50%以上に引き下げられたのだ。また副原料の使用が緩和されたことによって、それまで「ビール風味の発砲アルコール飲料」つまり「発泡酒」とされてきたものが、製品によっては「ビール」としても流通
可能になる。
つまり、今回の比率引き下げは単に税率だけでなく、「ビール」の定義が緩和・拡大されたことによって、
これまで麦、米、トウモロコシや糖類など8種ほどに限られていた副原料が、これからは果実や野菜、香辛料は
もちろん、ソバ、ごま、蜜、塩、味噌、コーヒー、昆布、ワカメ、かつお節…等々が使用されることになる
らしい。
いままでのビールの味が、麦芽・ホップ・水に多くの比重をおいてきたが、これから「ビール」の定義が緩和・拡大されたことによって当然、「ビール」というものの味も大きく変わってくる。まだ150年そこそこのビール
醸造の歴史しかないこの国のビールが成熟していく前に、製品多様化の途へ舵を切ったということになる。
これから次々と試されるであろう新商品が、アルコール市場の低迷を打破し活性化を促すように投入されていくのだろう。いつだってあらたな欲望を刺激される続ける私たち「消費者」というのは、なんと嬉しくも哀しい
種類の人間なのだろうと、思わざるをえない。
もし、「本当のビールの味」というものがあるとするなら、それはどうやって残り、どこで飲まれ続けていくのだろうか。祖父や父たちが愛飲した苦き大人のビールの味も、ますます遠ざかり記憶のなかに消えていく。
と、ここまでわざわざビールの「定義」の緩和・拡大にまつわる話に触れたのは─。
じつは今年2月に東京都写真美術館他で開催された、第10回恵比寿映像祭「Mapping the Invisible インヴィジ
ブル」に関連しての、美術家・岡崎乾二郎へのインタヴューを読んで、いまだ定義しえない「美術/芸術」というものの「緩和・拡大」のことを思い返したからだ。
そのなかで岡崎乾二郎は、「ものを見ることの意味が失墜した」。「視覚メディアの発展は、現実的には人間の視覚の可能性の拡大ではなく、人が実際に何かを見ることの意味、価値を失墜させた、個別の具体的体験の意味を文化的周縁に追いやる働きをしたということです」。「いづれ視覚という概念は刷新されざるをえなくなる」と語っていた。
僕なりにこれを解釈すると、視覚体験つまり直に「見る」ということを通しての体験が疎外されてしまっているということだ。ものに、じかに触れるということ。自分が直に見て触れるということが経験の、体験の、始まりではなくなっているということ。
あの歩きスマホ、電車内や待ち時間の、端末への注視が好例だろう。じかに見るまえに、もうすでに端末の中
から「見る」ことの経験が始まっている。実際に何かを見ることの意味、価値は疎んじられているのだ。いまや美術館やギャラリーでも見るまえに、携帯カメラをかざす。むしろそのことが「見た」という体験になっているのだ。おそらく岡崎はそれらのことをも踏まえ「いちいち見る必要がなくなったということです」と言っているのだと思う。
見るまえに見せられてということは、とうぜん私たちの「美術/芸術」体験の変質をも意味しているということ
になる。