……………………………………………………………………………………………………………………………………
美術折々_129
感性の錬磨のゆくえ
2020年の東京オリンピック・パラリンピックをまえに、いよいよ首都東京に拍車がかかる。オリンピックは
スポーツと同時にまた「文化の祭典」でもあるから、国家的に文化芸術面からも積極的にこれを盛り上げて
行こうという訳だ。
たとえば東京都とアーツカウンシル東京が取り組む、2020年に向けての 『Tokyo Tokyo FESTIVAL 企画公募』もそのひとつ。2月1日からエントリーが始まり、「ジャンルを超えて芸術文化の企画を募集」するというもの。もちろん国籍、年齢、ジャンルや経験は問わず、反社会的勢力以外なら個人でも企業でも、子どもでも大人でもだれでも応募可能である。
「芸術文化都市東京」を世界にアピールできるような企画内容として、「あらゆる人々が参加できる」こと、「アートの可能性をひろげる」ものなどが、どうやら期待されているらしい。「ジャンルを超えて」というだけあって、音楽、演劇、美術、映像、マンガ、ゲームやファッション、建築、食文化等々。とにかく、健全健康、安心安全なら、なんでも受け付けます、というところか。
この国の「文化芸術基本法」によって推進される「芸術文化の振興」は、さまざまな文化資源を〈2020年〉に
向けて結集させる。
イギリスの文芸批評家、テリー・イーグルトンは『文化とは何か』の中でこう言っている。「国家はまえもって、市民の感性を錬磨
していたはずだ。そしてこの過程こそ、わたしたちが文化として知っているものなのだ」と。
だとするなら、文化資源として錬磨された私たちの「感性」は、こんな時こそ「ジャンルを超えて」、「あらゆる人々が参加できる」そして「アートの可能性をひろげる」ために東京において芸術文化は今こそ企画され創造されるべき、だということになろうか。
だがすでに1990年3月、つまり現代美術が崩壊する以前に、美術批評家の藤枝晃雄は「あらゆるものが芸術に
なるということは、実にすべてのものが芸術にはならないと自覚されるとき、そこにのみ意義がある」
(『現代芸術の状況』)と言い切っていたことを忘れるべきではない。
もし、「すべてのものが芸術にはならない」とき、私たちの「感性」は、「芸術文化」は、そして「アート」は、いったいどのようなモノになれるというのろうか。このことを考えずして芸術も文化もありえないように
僕は思うのだが、いかがだろう。