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美術折々_120
きょうもその夜明け前に
先日、西鉄平尾駅からほど近い古びたビルの一室で開かれている木下由貴の写真展を見てきた。(12月3日迄)
それはちょうど今日のような初冬の雨にけむる灰色の午前と、どこか似ていた。だからといって、それらの写真が、霞んでいるわけでもそこに霧のようなものがが立ち込めている訳でもない。むしろ被写体はくっきりと鮮明に写し取られている。
それでもなお、まったくもってその景色のおおくは、どこか〈荒涼〉としているのだ。それらが、例えば山の
ふもとであろうが、森の何処かとして、あるいは電車が過ぎ去る踏切を前にしても。それでも、一粒の、一辺の、一角の、一瞬の、あるいは無辺の、なおかつ、逆説的にきこえるかもしれないが、〈肥沃〉というものが、そのような荒涼とした風景にひそんでいるように思えた。
しかし、肥沃といってもそこに何かが繁茂し熟した実をつけているのでもない、肥沃の沈殿。つまり荒涼と、
肥沃が、おなじく在るというか。そういう堆積した時間が計りしれない層をなし、それらが複雑に交互しながら融け合って、この瞬間を成しているはずだ。
では、彼女はそのどれを見て〈写真〉にしているのだろう。いやこれは《写真》なのだろうか。そう決めつける必要もないが。それでも「作品」としてのある不可解さのようなものが、ここにある。
ちなみに木由貴下は今回、この写真展に『淵と瀬』というタイトルを付けている。これはある種の深浅を暗喩しようとしているのだろうか。それは分からない。翻って。なぜこれ程に巧妙にわたしたちの日々は、なぜいっそうこのように、きょうだって、その夜明け前から、殺伐とした光景や欺瞞の言葉の周到な準備と応酬によって
しか始まらないのだろうか。そのような朝を迎えねばならないのか。
それに対して彼女の写真は、そうではないと控えめなことばで語っている。ありふれた「癒し」となどとはほど遠い「写真」として。