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美術折々_100
もしそれが、痛烈なアイロニーかパラドックスだとしても
第57回ベネチア・ビエンナーレ2017が、5月13日に開幕した。今週早くも 6月3日付読売朝刊、8日付日経夕刊と、新聞の文化面は、相次いでその展覧会レポートを掲載していた。
今回の総合ディレクターは、パリのポンビドゥー・センターのチーフキュレーターであるクリスティーヌ・マセル。彼女の提示したテーマは、「Viva Arte Viva」(芸術万歳)。
すでにこの気恥ずかしい程の、現状肯定的なテーマ自体に、現在の「世界の芸術」の深刻な混迷振りが現れているように僕には思われる。はたしてそれが、単純に「芸術がもたらす効果に希望を持ち、芸術自体への礼賛を
目指し」ていると言えるのだろうか。「アートワールド」とは、そのようなものなのか。
人類にとって未曾有の功利主義が蔓延するこの世界にあって、止むことのない移民や難民の流失、そして貧しさと富との埋めようのない格差を、私たちは、どこまで拡大し拡張して行けば気がすむというのだろう。
そんな現実に対して「『芸術』の役割を見つめ直す意図」があるのだとしても、私たちはいったい「芸術」に、
なんの「役割」を期待すればいいのだろう、あるいは期待しようとしているのだろうか。
「芸術は世界を変えてこなかったかもしれないが、芸術にはやりなおす余地が残されている」と、
クリスティーヌ・マセルは記者会見で語ったそうだ。「やりなおす余地」というのは、芸術自身の歴史への反省なのか。それともこのような世界に対しての、芸術自身の無力さへの反省のことなのか。
社会学者のイマニュエル・ウォーラステインが言ったように「世界の資本主義システムが構造的な危機を迎えている」ことに、「芸術」だけが無関係でいられるはずはない。
このような危機に、「世界の芸術」は、どう批判的に答えられるのだろう、と僕は思う。もちろん、危機は
どんな時代だってあったし、これからも延々と危機といものは途切れることはないはずだ。
しかもこの現在の、世界を覆う「恐怖と不信感」は、何も隣り合わせの〈テロ〉だけではないのだ。
『芸術万歳』とは、いったい誰に向けて発せられているのだろうか。ここにどんな「アートパワー」があるのだろうか。
そこにもし「芸術の力」というものが、行使できるのなら、それはどんな形なのだろうか。
私たちはまず、そのことに一度は思いを凝らしてもいいのではないだろうか。