元村正信の美術折々/2017-03-31 のバックアップ(No.1)


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美術折々_91

ある蔓延への、感性の抵抗として (3)

アドルノの『美の理論』において、アドルノは「芸術」と言っているのであって、「アート」とは言っていないと前回、僕はいった。

だがこれは厳密にいうと、アドルノは原著をドイツ語で書いているのだから原語は「Kunst」である。だから
それを「アート」とは訳さずに「芸術」という日本語訳をとったのは、翻訳者である大久保健治の判断だということになる。初版は1985年。今からすでに32年前のことだ。

ちなみに1980年代の日本では、まだ「現代美術」という語が名実ともに活きていた時代であり、「アート」などという言葉はほとんど使われることも、耳にすることもなかった。翻訳者の訳語選択もまた、それらと無関係
ではなかったと思う。

さてこの、「芸術」あるいは「アート」という〈翻訳語、あるいは逆翻訳語〉について考えるとき、ちょうど
手頃な話題がある。

今年1月に日本語訳が出版された美術批評家 ボリス・グロイス(1947-)の『アート・パワー』(現代企画室)という本だ。翻訳は、石田圭子・齋木克裕・三本松倫代・角尾宣信の共訳。
(原題は『Art Power』 The MIT Press, 2008)。グロイスはそれに合わせて東京と大阪でのトークとシンポ
ジウムのためにも来日し、メディアでも取り上げられていた。

この本をひとことで言えば、現代の「芸術」と制度あるいは社会、そして政治との関係を巡る批評的言説、と
取り敢えずは言うことができよう。その上で僕はこう読む。

おそらく ボリス・グロイスは、〈芸術の自律性〉というものをグローバルに拡大し続ける〈ART WORLD〉に
対してその当事者である「芸術」は、みずからその渦の中にあっても、それへの「抵抗は可能」なのかと、
問うているのだと。

しかし、じつはこの『アート・パワー』という訳本は、日本では多くの誤読や誤用を招くように思われもする。

まず、このタイトル。直訳するなら「芸術の力」となるところだろう。だがそれでは、曖昧だ。当然、共訳者のあいだで議論はあったはずだ。なにしろこの時代、分かりやすさ第一。誰にでもわかるように、関心のない人にも関心を!という強欲かつ開かれた時代なのだから。確かにカタカナの「アート・パワー」なら、原題は
『Art Power』だから、そのままの表音語で日本人にも取っ付きやすい。きわめて今風な、〈適訳〉として採用
されたのだろう。

もしも僕がタイトルを訳すのなら、 『現代美術以後の、芸術の権力』 もしくはズバリ、『芸術権力』として
みたいところだが。しかしそれでは売れるものも売れない、と誰からも言われそうだ。
ボリス・グロイスさん、いかがだろうか。

それでもこの『アート・パワー』を一読すれば、「Art」という原語はそのタイトルに反して、本文では一貫して慎重に「芸術」や「美術」という語が採用されている。例えば、芸術作品、芸術批評、芸術的、美術といった
具合に。下手をすれば、「アート作品」、「アート批評」、「アート的」、「アート制度」等々と、まじめに
訳されかねない時代なのである。

そのことは、共訳者のひとりである石田圭子による巻末の[解題]にも表れている。ここでは本文とは打って
かわって「芸術」、「美術」ではなく、「アート」という語が頻出する。
グロイスなら、いま苦笑いをするだろうか。

「アートとは何か」という問いと、「芸術とは何か」という問いは、必ずしも同じではないと僕は考えている。
一見、どちらも「ART」を問うているようだが、そうではない。「芸術」にはカタカナの「アート」に対する
批判も含まれるが、その「アート」には「芸術」からの離反はあっても、批判などに関心はないだろう。むしろ「アート」は、「芸術」を意識的に変換したに過ぎない。しかもその変換は、「ART」そのものの〈翻訳〉ではなく、日本語訳としての「芸術」という語の放棄をも含んでいる。

すでに日本語の「アート」は、「芸術」の外部となったのだろうか。エンターテインメントという名の。

なぜ現代は、「美術」という語を、「芸術」という語を、敬遠してやまないのか。加速する「アート」化への
趨勢はやまない。ただ漢字を、ひらがなやカタカナに、分かりやすく言い換えたいだけなのだろうか。
「埼玉」を「さいたま」にしただけなのか。僕には、そんな疑問がいつも執拗にあるのだ。時折、「文学」や「写真」、「映画」や「演劇」を、うらやましくさえ思ったりする。