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美術折々_81
2016年の暮れに
ことし一年、『元村正信の美術折々』を読んでいただいた方、本当にありがとうございました。
いつもおなじことばかりを繰り返し言っているだけのようですが、それにはそれなりの抵抗があるのです。
僕はつねづね、「現在」というものは「現在の批判」でなければならないと思っているひとりです。
だから僕が何かを描き、制作し、考え、語ろうとする「美術」もまた「美術の批判」でありたいと考えて
います。現状肯定をよしとしないこと。ラディカルな否定性を、なおもみずから持ち得ているかと問い続ける
こと。
そのような志向は僕が20代の頃、1970年代に出合った今は亡き「現代美術」から学び、受け取ったものです。
「現代」を喪失した「美術」の現在というものを、自らの作品を含めどうしても見極めたいと思っているの
です。
世界を席巻する圧倒的なグローバリズムの奔流は、資本の絶対的優位という新自由主義の名のもとに
民族や人種をこえた多文化的〈格差〉として、あらゆる人間関係を差別化し二極化させ腐蝕し続けてやみません。
私たちの「芸術」もまた例外なく、このような経済的制裁とその応酬という甘い蜜のように強大な力によって
切り刻まれています。しかしどのように切り刻まれようと、「芸術」は「芸術という抵抗」をとおして、この
虚偽と欺瞞にみちた世界に対してみずからの自律を実証しなければならないのではないでしょうか。
けれども問題は、当の「芸術」がいまだ定義しえず、「実証」されてはいないということなのです。
「芸術」=「アート」ではないのです。だからこそ私たちは、「なんでもアート」、「だれでもアート」、
無条件の「体験と交流」といった文化振興や文化芸術を通した活性化の口当たりのいい甘言には、留保を付けて応じなくてはならないはずです。
はたして、いつでも「誰にでもこころはひらける」ものなのでしょうか。この商品信仰の甘い勧誘のフレーズには、やはり
無理があるのではないか。人の心というものは、いつも開かれてはいるけれど、同時に閉じられてもいます。
そのつど、ためらいや拒絶をさえ繰り返しているのです。
私たちの芸術が、これから成りうるかも知れない「芸術」になるためには、やはり芸術みずからが、この現実
という虚構を、(例えば「墜落」を「不時着水」と、堂々と正当化できる現実を)、どうしても突き抜けなくてはならないのです。どのように芸術が商品化(売買)されようとも、芸術は自らその商品を批判できる形式と
内容を持たねばなければならない。
いいかえれば、そのような矛盾を抱え込むものでなければならない。
僕の「絵画」が、「作品」が、どこまでそれを実現できているかというと、たいへん心もとない。
だが、このような営みが、どこかで誰かの目に触れ、いつの日にかそこに届くだろうと信じてもいる。
そして現に、見てくれるひとがいる。こうして年の暮れに、さまざまのことを噛みしめつつ。