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美術折々_77
ハロウィンのなかの「箱女」
先週夜のNHK TV『ドキュメント72時』は、東京・六本木の街角、10月末のハロウィンを取り上げていた。
年々高まるハロウィン熱。この時期、大人から子どもまで、さまざまな工夫をこらした仮装や仮面の人たちが
街に溢れる。日本ではバブル期以後広まったアメリカ経由のイベントの一つにすぎないが、それでもつかのま
自分たちが楽しみ、はしゃぎ、またそれを知らない誰かに見せる。そこにビジネスもどん欲に絡みつつ、
この国のあちこちで、街にいっそう賑わいをもたらしますようにという訳である。
それはそれとして、その中で僕の目をひきつけたのは、二人連れの若い女の子たち。
その仮装はいたってシンプル。ただの段ボール箱を頭にかぶり、そとが見えるように覗き穴を開けただけの
もの。取材側もよく見逃さなかったものだ。何よりすごかったのは、その格好よりも女の子の、冷徹冷静な
コメントだった。
「一方的に見ている。失うものがないんです」、「ネットとおなじで」と、ひとこと語ってくれた。
聞けばこの仮装は、安部公房の小説『箱男』をモチーフにしているという。
(安部公房の箱男は、頭だけでなく腰まですっぽり被って、箱の中から外界を眺め彷徨う、まぼろしのような
不在の、「匿名の夢」を、いまでいえばホームレスのような男に仮託し様々な要素を散りばめた実験的小説。 1973年)
なるほど文学とハロウィンか、なかなかやるな、と思った。
しかし、「一方的に見ている。失うものがないんです」というこの、ある種の「つよさ」はなんだろう。
段ボールという紙の箱で外界と仮にでも遮断された「わたしだけ」が、一方的に世界を見ている。まるで透明
人間じゃないか。逆からいえば遮蔽された、わたしは「見られていない」という奇妙な安心感を、この二人組の若い女の子たちは互いに体験していることになる。
もちろん、「失うものがないんです」というのは強弁のようにも受け取れるが、それでも「見られていない」
ということが、どれほど私たち人間というものをかりそめにも強くすることか。逆にいえば、それほどに不安で失うものばかりの、私たち人間の「よわさ」を告白していることにもなる訳だ。同じ安部公房の小説『砂の女』や『壁』にも見られる〈自我〉のねじれとでもいうか自己と他者をめぐる、帰属を志向しながらも行き場のない葛藤は、いまのハロウィンの若い女の子たちの仮装にも、じつは顔を出していたのだ。
では「仮装」のない「人間らしさ」というものが、はたしてあるのだろうか。あるいは「人間らしさを失わない」ということは、どういうことなのか。じゃあ、いつの時代なら「人間らしさ」があったというのだろう。
なにも人は「人間らしく」生まれてきた訳ではない。
誰もが死にいたる〈成長〉の過程において、もしかしたら「人間」になれるかも知れないという、そういう
かすかな希望にも似た生き方において、はじめて実現されもするし、人間「らしさ」というものにも、まれに
出会えるのではないだろうか。僕はそう思う。
TVで見たハロウィンの、箱男ならぬ「箱女」におもわず触発されて、そんなことを思いなおす初冬の夜だった。