元村正信の美術折々/2016-11-13 のバックアップ(No.1)


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美術折々_74

無言の甘い蜜

東京都美術館に次いで日本で二番目に古い大規模公立美術館(1933年設立)である京都市美術館が揺れている。
各新聞やネット上でも知られる通り、2019年リニューアルオープン後の愛称が『京都市京セラ美術館』となる
ことが決まってのことだ。京セラが50年間、約50億円で命名権を買い取ることになったという。
同市は約100億円で本館の耐震化や新館建設を計画しているらしいが、その財源確保のために命名権売却を
決めたというものだ。

京都新聞2016年10月26日(水)付記事では、京都市美の前身である「大礼記念京都美術館」が、83年前関西財界と町の人々がお金を出し合ってできたと伝えながら、また8月上旬に議会で表に出て以来、性急に進んだ印象があるとしている。

僕は今年5月にこのブログでも、「これからの美術館」の、これから(1)と(2)において、福岡市美術館の
リニューアル問題について触れた。読まれた方もいると思う。今年8月末にいったん閉館、9月から改修に着手し2019年3月のリニューアルオープンを目指すもの。ここでは改修から再開後の美術館運営が15年間に渡って民間会社(事業者)に移行することになっている。

その民間会社(事業者)の落札総額99億8800万円超。時期といい規模といい、ちょうど京都市美術館リニューアルとほとんど重なることになる。いまでは「財源逼迫」というのは、日本全国どの地方自治体でも決まり文句のようなものとなってしまった。国は、盛んに国家規模での「文化芸術の振興」策を押し進め、それに沿うように地方での官民一体の「芸術祭」の興隆も目立つ。

その一方で、つまるところ「芸術の規制緩和」のあらわれの一端が、このように京都市や福岡市に見られる公立美術館の
命名権の売買や民間企業への美術館の運営権の移行という、もっと奇妙な言い方をすれば、財源確保という名の
〈芸術の民営化〉とでも呼ぶべき、かつてない歯止めのない現象をもたらしているとは言えないだろうか。

西日本新聞夕刊2016年11月10日(木)付記事も、「美術館命名権売却に賛否」と題してこの『京都市京セラ美術館』の問題を報じていた。その中で京都市長の弁として「芸術は経済界の支援なしには成り立たないのが世界や日本の歴史」という短いコメントを載せていた。市長のこの、「芸術は経済界の支援なしには成り立たない」という答弁は一見、強弁乱暴なようでじつは、この国の「文化芸術の振興」策の内実をよく反映したものだと、僕は思う。それほどに私たちが「芸術」と呼び、また関わろうとしている、現にかかわっている「美術」というものは、まったくもって「見くびられ」ているのである。

もし、「芸術」というものが、経済界や国家の支援なしには成り立たないのであらば、芸術が生まれる「個」という最低限の
営みの出自は、そして未来は、あまりにも脆弱で同調的、予定調和的なものとなってしまうだろう。
振興も緩和もみな芸術の、みぞおち深くいつしか密の味となってしのび込んでしまったようだ。

何度でも言うが、いまだ存在したことがないものとしての「芸術」でなくして、芸術は「芸術」に成れない
はずだ。「芸術」とは、あらゆる〈無言の圧力〉を跳ね返せる力を身に付けられるかどうかによって、
初めて「芸術」というものになれるのだと、僕はいつも思っている。