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美術折々_67
「境界」という現実と幻影
いま、西日本新聞朝刊文化面で連載中の随筆、岩下明裕の『世界はボーダーフル』。
「ボーダーレス」全盛の現代の中で、「世界はボーダーフル」と言い放つ気鋭の政治学者だ。
「境界」とは何か。島、領土、国境それらを保持する国家。なにより〈境界〉とはその主権がせめぎあう場所
である。
一方こんにちのグローバリズムは、ネグリとハートがいうように「国民国家の境界の衰退」をもたらしている。
資本は、たやすく国境を越え、世界のすみずみにまで市場原理が容認され跋扈しているというのに。あるはずの境界と無化される境界が、まさに「通貨」の両面を担っている訳だ。
岩下は言う。「領土は外部に対して差異化され、同時に内部では均質化されていく」。
この連載は始まったばかり。すこし硬派だが、久し振りに全50回が楽しみな随筆である。
もう20年くらい前だろうか。思想家の谷川雁が晩年、自らの幼年期と少年期を回想し同じ随筆欄に寄稿した
ことがあった。谷川は自らの連載が始まる前に、全50回分の原稿を書き上げて渡したと述べていた。
谷川らしい豪腕というべきか。
その中で谷川は、資本主義社会が高度化して行けば、未来において「国家」というものも、やがて消滅するだろうと語っていたように記憶している。おそらく世界は超国家的なものへと「国民国家」の境界が消滅し〈帝国〉へと編成されていく資本制をすでに想い描いていたのだろう。
今の「国家」というものは経済的には、超国家的状態を志向しているが、それでも同時に「国家」は領土を、
境界を、主権を保持し、それらをなおも排他的に主張してやまない。むろん「世界はボーダーフル」という考えは、なにも国家だけではない。〈境界〉は私たちの日常の隅々にまで行き渡り、区切られ、仕切り、規制され、規定してやまないボーダーラインに充ちている。もちろんこれらのほとんどは、本来あり得ないはずの「境界」が、つくられたという意味で「フィクション」といってもよいのだが。
例えば、いまや街中のいたるところに設置されたあの「監視カメラ」はどうだろう。何かと何かを分け隔て、
区別し、識別し管理するための装置。私たちはまさに「日々ボーダーフル」に見られているのである。それでも自由化、規制緩和の名のもとにボーダーレスは、いっそう進行している。
ボーダーフルとボーダーレスは、二極化しながら同時に同じ方へ向かっいるのだ。
私たちは、境界のない、障碍のない日常を志向しながらも、越えがたい「境界」のなかで、もがいている。
いったい何によって私たちは縛られ、拘束されているのだろう。
〈境界のない世界〉とは、永遠の見果てぬ夢なのだろうか。