元村正信の美術折々/2016-05-22 のバックアップ(No.1)


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美術折々_54

「これからの美術館」の、これから (2)

昨日 5月21日(土)、福岡市美術館で開催された同館のクロージングトークショー「これからの美術館」。

リニューアルに向けて 「つなぐ、ひろがる美術館を先取りする試み」のイベントのひとつとして市美の岩永悦子学芸課長を進行役に、ゲストに逢坂恵理子(横浜美術館館長)、藤浩志(秋田公立美術大学教授)、中村政人(東京藝術大学教授)の各氏を迎え、会場の同館講堂は申込予約でほとんど満席になるほどの関心ぶり。

出演者に共通するのは、いわゆるカタカナの「アート」が、社会とどうつながり、関わりながら、どうすればアートとそうでないものが、どんな人々とも結びつきより不特定多数の広がりを持つことができるか、という
この一点に向けられていることだ。

ひと言でいうと、「美術」と「現代美術」と「アート」の、この三つの言葉を誰もが非常にうまく使い分けて
いるということ。つまり制度としての「美術」。歴史認識としての「現代美術」。そして未来を生み出しつなぐ「アート」といった具合である。

ツールとして、機能し、有用性をもつ、利益を、元気を創りだす、そのようなものとして求められる、
「アート」実践論。ではそのような全ての前提となる、「アート」とはいったい何なんか。
実践こそが、問うことと同じだというのだろうか。

「美術」と「現代美術」と「アート」は、どう違うのか。もしくは同じなのか。
いつだって何一つ問われてはいないのだ。

福岡市美術館も再開後、民間事業者によって「これからの美術館」が運営されて行く以上、民間ノウハウの導入などといった素朴な次元では済まされなくなる。合理性、効率、利潤の追求や結果主義の要請その裁断による
運営は、美術館それ自体への介入へと発展しかねないと言えなくもない。現場や学芸もみずからの自律性、専門性が担保され続けるとは限らない。

いずれにしろ、福岡市美術館という「文化施設」がいっそうの賑わいや集客、観光拠点のひとつになるよう
生まれ変わって行かねばならないことは、誰の目にも明らかである。その時、大濠公園の緑や水景とともに内外から多くの人々が訪れるおもてなしの観光スポットとなり、にぎわい溢れるアミューズメント館となるのかも
知れない。

ふと気がつけば、これまで蓄積された美術資料や作品、探求すべき調査研究や活動の停滞、スタッフの流失といった内実の疲弊、実質的空洞化に陥らないと果たしてだれが断言できるだろうか。これは心配症でもある僕の、いつもの危惧に過ぎないのだろうか。

とくにリニューアル後の、施設の所有権(福岡市)と運営権(民間事業者)とのはざまで、美術館活動の中核を担うこれからの学芸員諸氏の発言や奮闘、踏ん張りに、僕は いちるの望みを託したいと思うからなのだ。