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美術折々_27
27年振りの「九州派展」
現在、福岡市美術館で開催中の「九州派展」。
企画展示室・小作品展示室・日本画工芸室の3室をつかって同館収蔵品を中心に66点、それに写真・印刷物等の
関連資料約60点程も合わせて展示している。1988年に同館によって企画された初の九州派回顧展「九州派_反芸術プロジェクト」には規模、内容ともに及ばず、必ずしも「全貌に迫る」という訳にはいかないが九州派というものをまったく知らない世代へ向けての、ある程度まとまった紹介となっているのではないだろうか。
今回の企画展がそもそも『九州派資料集』の刊行という主目的から派生した展示だとするなら、この部厚い資料集を加えた上で、1988年以後、27年間にわたる福岡市美術館の、九州派研究の深まりとその成果が問われる展覧会と、位置付けてよいだろう。
さて冒頭から、九州派展、九州派と、以下何度も繰り返しているが、とくに若い世代には初めて聞くという人も少なくないと思われるので、「九州派」とは一体どんなものなのか、少しは触れておこう。
おおざっぱにいうと、近代という日本の美術史の中では、いまから60年程まえに前後して国内各地で起こった、いわゆる〈前衛美術〉運動のひとつとしての(もちろん運動であったかどうか、運動でないものも含めての再考はいるが)、ここ北部九州の福岡市を拠点に活動した、芸術家志望の若者たちの美術集団が「九州派」であったと位置づけられている。
メンバーのひとり、山内重太郎によれば、「いままで前衛を持たなかった九州に、それこそほんものの前衛を打ちたてたい」(『芸林』1958年7月号)という、大いなる野望もあったようだ。
「九州派」については改めて別の機会があれば、僕なりの否定、批判、評価も含め書いてみたいと思っている。
ただ、ひとつここで言っておきたいのは、ほんらい既成の美術団体展(独立や二科といった)に出品することで画家を志していた多くは独学の若者たちが、必ずしも最初から〈前衛〉いわゆるアヴァンギャルドを志向していた訳ではないこと。
つまり団体展的絵画、既成の「芸術」を志向していた若者たちが、一端落ちこぼれたことで逆に、その時代の、美術の奔流に身を投げ、巻き込まれた結果、思いもかけず『反芸術』の当事者としてその痕跡を日本の60年代の前衛美術運動、美術史のひとつに名を残してしまった、というのが実相ではないかと、僕は理解している。
もちろんそれ以後の、個々の作家の歩みと評価はまた別のことだが。
ここで、見過ごしてならないのは、作家にとって「絵が描けない」ということは、必要条件ではないということだ。九州派の多くもまた例外ではなかったと言ってよい。そのことは、当時の他の反芸術といわれた集団や、その後の「現代美術」そして現在の「アート」にも、作家の成功にとっては逆に作用している場合も多いにありうるのだ。
誤解をおそれずに言えば、うまく「絵が描けない」集団が、どんな絵画もゴミでさえも、同時に「作品」になりうる一方で、作品は自壊、崩壊するかのように「拒絶」されもした。敗戦からの復興という熱と、戦後の歪みとの矛盾に裂かれるような「背反の時代」に生きていた彼らの悦びと悲哀を、僕はつよくおもう。
今のように、どんな作品でも肯定的に受けとめられ、全てがなんでも「アート」でありえるような時代を、九州派にかかわった若者たちは、いまならどんな感慨をもつだろうか。
今回、「九州派展」会場の三つの室をひとり何度も巡りながら僕は、みずからも晩年まで九州派を批判的に顧み続けていた山内重太郎が、かつて夢想したであろう「ほんものの前衛」というものを、私たちは一体、どこに見つけることが出来るのだろう、と思うのだった。
あるかなきかの「前衛」に踊り、一身を賭けた者たちの若きの痕跡が、少し照れくさそうに、こちらを見ている気がする。
(同展は来年1月17日迄)