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美術折々_26
いまは亡き、F U J I T A
様々なメディアがにぎにぎしく特集を組んだ「戦後70年」も、あと2カ月を残すところとなった。次の「戦後
80年」までの10年の谷間を、私たちはまたいつもと同じのように、欺瞞と忘却の日々にいそしむのだろうか。
いま、東京国立近代美術館で、12月13日まで同館所蔵の「MOMATコレクション」展の中で、26点からなる
「特集:藤田嗣治、全所蔵作品展示。」が開催されている。中でもその半数を占める14点の、いわゆる「戦争画」の一挙展示は、はたして70年間という「時間」が赦したものなのか。
その戦争画の〈頂き〉とも評される藤田嗣治の《アッツ島玉砕》(1943年)。画集等で見たことのある方も
多いだろう。
画家の野見山暁治は、自らのエッセイ集『四百字のデッサン』(河出文庫)の冒頭、「戦争画とその後-藤田嗣治」でこう振り返っている。すこし抜き書きしてみよう。
「今なア、美術館に行って、お賽銭箱に十銭投げるとフジタツグジがお辞儀するぞ。本当だった」
「隣りの美術館でやっている戦争美術展にさっそく行ってみたら、アッツ島玉砕の大画面のわきに筆者の藤田嗣治が直立不動の姿勢でかしこまっていた」
「この大きな絵が出来あがった日のことは、藤田邸に住みこんでいる私の女友だちから詳しく聞いていた」
「戦争がみじめな負け方で終った日、フジタは邸内の防空壕に入れてあった、軍部から依頼されて描いた戦争画を全部アトリエに運び出させた。そうして画面に書きいれてあった日本紀元号、題名、本人の署名を絵具で丹念に塗りつぶし、新たに横文字でFUJITAと書きいれた」
「なに今までは日本人にだけしか見せられなかったが、これからは世界の人に見せなきゃならんからね、と画家は臆面もなく答えたという。つまりフジタにとって戦争とは、たんにその時代の風俗でしかなかったのかも知れない」
そして敗戦後、「日本に捨てられ」、フランスに帰化してのちのFUJITAを、野見山暁治は次のように締め括っている。
「私たちにとってフジタの帰化は、一種のコスモポリタンとしての見事な資格を、人格的に掴みとったように思っていたが、どこの土地の人間でもないただの旅人ではなかったのか。つねにライトに当っていなければ生きてゆけない人生がそこに在るようだ。アッツ島もパリも光りだった」と。 時代の風俗、旅人、そして光り。
なるほどな、と僕も思う。
また野見山は、同じエッセイ中の「戦争画」と題する項で、まだ画学生だった自分たちの言葉として「平和画とか生活画とは言わないのに何だって、これだけ戦争画だけがあるんだ。作意がありすぎるよ」と、素直に記している。
そう、〈作意がありすぎる〉のである。
いわゆる「戦争画」が、ながく「タブー視」され続け「日本美術史の恥部」とまで言われてきたのは、いわゆる風景画や静物画のようにどっぷりと芸術に漬かった〈絵画〉ではなかったこと。たんなる絵画に加え、戦争という、二重の構造を避けがたくすべての戦争画は負わされている。国家は、軍は、画家が好むと好まざるに拘わらず彼らじしんにとっての〈絵画という戦争〉を強制し、課したからであろう。戦争の呪縛からの解放というが、そうであるなら、絵画もまた戦争という呪縛から解かれねばなるまい。しかし、ことはそう容易ではない。
「藤田嗣治が引き受けた近代日本の歪み。その問題は今も解決していない」と、映画監督の小栗康平は現在公開中の映画「FUJITA」に触れてそう語っている。ただ、野見山暁治が、フジタにとって「アッツ島もパリも光りだった」といかにも画家らしく捉えなおした時、そこには「歪み」というよりも、むしろ絵画も戦争も、なんのブレもなくぴったりと重なり合っていたとはいえないか。
1943年、《アッツ島玉砕》初公開時。賽銭箱と作品のわきで何度も何度もお辞儀をし、直立不動の姿勢でかしこまっていた、晒しもののような画家、藤田嗣治が、その時一体何を思い、考えていたのか。その心情、胸中も、今となっては知るすべもない。
フジタ。あるいは、終わらない旅、そしてデラシネ。
このことばも、もうとっくに死語かもしれない。だが、私たちの〈戦争〉は一体いつ終わるのだろうか。