……………………………………………………………………………………………………………………………………
美術折々_24
遺産の相続
たとえば、中世まで海に浮かぶ小さな瀬のひとつに過ぎなかった「シマ」が、やがて紛れもない近代の「人工島」へと変貌し、そして100年程もすれば用済みとばかり、そこでの栄華、労苦や闇も全て打ち捨てられ、いつ
しか「遺産」となった。
いっぽう、アドルノは、「進歩の軌跡は、同一のものとなることをいさぎよしとしないものをことごとく根こそぎにしてしまうため、荒廃の軌跡でもあった」と言う。 もっともこれは「隅々まで作られたものである、つまり人間的なものである芸術作品」についてではあるが、隅々まで造られるべき産業とて例外ではないだろう。
ニーチェなら、「一つの『進歩』の量は、そのためにすべてが犠牲にされなければならなかったものの集塊の量によって測定される」(『道徳の系譜』)と言うところだ。ここでの集塊の量とは、むろん荒廃そのもののことだと言ってよい。
そんな、進歩にしろその背後に訪れる荒廃にしろ、より強い人間の繁栄のために招集され奉仕する私たち人間の、輝かしき痕跡と同時にその残骸に違いない。いまでは、国家さえ資本の前では、いかようにも「弱者」と
なりうる時代だ。
〈遺産〉というものが、人類の負い目、やましさ、負債を含めた広義の〈文化〉の軌跡であるのなら、文化の
永続化とは絶えずそれ自身への否定性や批判をも含み「相続」することによって、はじめて永続可能なものと
なるのではないだろうか。