元村正信の美術折々/2015-10-12 のバックアップ(No.1)


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美術折々_20
 

その逆説的盲目_2015

アートスペース貘の入り口に置いている元村展のサイン帳に、こんな感想があった。
「生命感が溢れていますね、もとむらさん」。

これはきっと僕の作品への褒め言葉なのだろう。有難くもあるが、すこし面映い。
なぜなら、少なくとも僕の「絵」は、そういった生の横溢を拒むもの、抑圧するもの、裏切りへの、
抗い(あらがい)としてありたいと思っているからだ。
誤解しないでほしいが、溢れ出るような生命感を表現しようと描いている訳ではけっしてないのです。
もしもその画面に何がしかの「生命」を感じられたのなら、それは生命の影、陰画として溢れ出た「生」
なのかもしれません。

僕は「美術折々_18」で、ニーチェの言葉を引いた。ニーチェは、生を否定しようとするすべての意志や力に
対する、僕の言葉でいえば〈異和〉を抱いていたはずである。だからこそ、芸術というものを、それらへの
「対抗力」と位置付けていたのではないだろうか。

またこうも言っている「芸術、しかも芸術以外の何ものでもない!」(『権力への意志』)と。
これはおそらく、もし芸術が、芸術「以外の」「何か」であっても良いのであれば、すでにそれ自身「芸術」
である必要など全くない、ということだろう。もちろん、「表現」というものがものみな芸術である必要も
ないのだが。

僕がいつも言う、カタカナの「アート」に潜む危機とは、そのことなのだ。もし、芸術「でなくてもよい」
方法や課題、問題に、当の「芸術」が直面したその時、それでも芸術はどこまでも芸術たり得るのだろうか。

「現代美術」が崩壊したのは、あるかなきかの「アート」に可能性をすり替え、自らの〈不可能性〉の中に
進むべき未来を掛けようとはしなかったからではないのか。

かつて大杉栄は「諧調はもはや美ではない。美はただ乱調にある。諧調は偽りである」(『生の拡充』)と
言い放った。ここにニーチェの「対抗力」と大杉の「反逆」を重ねて見るのは、僕だけではないはずだ。

踏みにじられ続ける小さき生のありように対して、芸術もまた、ただ盲目的に慣れ親しむ訳にはゆかない。