山本豊子 「fog_signal」
アートスペース貘では6年振りの個展。
山本豊子の作品をはじめて貘で見てから17年が経つ。福岡の他のギャラリーでの個展を含めこれまで7回ほど
見たことになる。
褐色を含めほぼモノクロームといってもよいそれらの作品は、どれも銅版や紙版、シルクといった版画をベースにしながら、ドローイングを拡張させたような「絵画」でもあり、時に大きな木箱に流し込み固めた石鹸や、
白いバスタブに鉄の四肢を付けたもの。あるいは木の机と椅子、金属缶、さらに映像、といった様々な素材を
用いている。いずれも「版」にとどまらない、物質性のつよい作品だ。
ちなみにこれまでの個展のタイトルをいくつか挙げれば、「達磨屋と逃亡癖」、「寝床で水牛が膝をうつ訳」、「賽の胡桃」、「天秤の山羊は巡る」、「シダ胞子の洋灰」、「起源の運搬」、「宇宙時代の独身主義、さえも」 などなど…。どれも、まるで難解でならす詩集のタイトルのようだ。
いやいやこんなことで、見る者はひるむ訳にはゆかない。むしろ山本豊子の作品は、タイトルに反し、すこぶるストレートだと思う。黒い漆黒のベタとそれにからまり縦横に奔る無数の鋭い傷。それらは自らの意志によって描いた線だけではなく、ゴミや汚れ、予期せぬ斑点、ノイズさえすべて画面に取り込んでいるようにも見えなくはない。
他の「オブジェ」だってそうだ。じつにシンプル。作家が企図したもの、コンセプトが、おそらくその通りに(もちろん制作上の格闘はあっても)、私たちに提示されていると言ってよいだろう。逆にいえば、見ることの破綻や嫌悪を起こさせない作品ともいえる。
それでも山本豊子の、この「寓意」に充ちたモノクロームの世界は、飽きることがない。
僕は以前から彼女の作品を見ながら、あのジュール・ヴェルヌの『海底2万里』の旅を思うのだった。あちこちと世界の果てを旅しながら、そこでの見聞、異聞や驚き、あるいは記録と伝承から触発され、ときに空想しつつ生まれてきたであろう山本豊子の「寓話的」世界の、そのどこからか聞こえてくる見知らぬ人たちの声。
この作家が、どのようなことを思い、何を考え、制作しているのかは知らないし、直接尋ねてもいない。
だが僕なりに解釈すれば、表層のみが露出し消費されてやまないこの時代に、おそらく山本豊子は、いま、ここにはないけれど、消え去ってしまった人間の営み、遺物や「物語の抜け殻」を、かつてあった古層を剥ぐようにして 〈伝播〉の跡形をすくい取り、それを絵の中に刷り込み、オブジェをかりて埋め込もうとしているのでは
ないだろうか。
これは、物語の再生でも記憶でもない。 なぜ私たちはかつて 〈そのようにあったのか〉 と問う作家の肉声にも聞こえるし、それはまた、私たちがいま 〈どのように生きようとしているのか〉と、自問することとも
重なっているように思えるのだ。
同展は7月5日(日)まで。
同じく 7月5日(日)まで 福岡市南区平和1-2-23 森山ビル1F の
ギャラリー M.A.P でも 版画とドローイングによる個展_山本豊子「カモメと腕木のメソッド」を開催中。
西鉄平尾駅から筑肥新道を小笹方面へ徒歩で約8分。合わせて見られてはいかがだろう。