末藤夕香 展
五月のつよい陽射し。
初夏の心地よい風とともに、目にも鮮やかな新緑溢れる季節の中をぬって、久しぶりにみた末藤夕香の個展は、
そんなまばゆい緑から抜け出てきたような、艶のある何種類もの濃淡の異なる緑の色糸にくるまれた、11個の
「オブジェ」を床や壁に配したものだった。
それらをいま僕は、仮にオブジェとよんでみたのだが、これらの中身は、たぶん椅子や腰掛け、それに木枠や
雑貨のようなレディ・メイド、もしくは手製のものだろうか。つまり多くは既製品を、無数の束ねた糸で被い
包み込むようにしてその「原型」を隠したものだ。
原型を隠すとは、それが持つ本来の機能や用途を一度閉ざすこと。それでも形そのものが歪められているという訳ではない。だから見るものは、糸におおわれた奇妙な「品々」に親しみとも困惑ともつかない感情を抱くことになる。
それは、「家具か小道具にも似た観葉植物」と声にしたくなるものだった。複雑な感触とでもいうものがここ
にはある。一見無造作に配置されたかにも見えるそれらのあいだに、緊張感といったものはない。むしろ誰かの「部屋」にでもいるかのようなある種の安堵感。この「誰か」とは、むろん末藤夕香のことである。もちろん
僕は彼女の部屋のことなど知るよしもないし、また実際の部屋であるはずもない。
時間を少し過去に戻すと、ある時期を境にこの作家は、それまで取り組んできた彫刻作品から〈極私的空間〉へと転出している。これは僕の憶測だが、末藤夕香は自分の〈居場所〉を仮構しながら、自らの他者、世界という外部を、そこに取り込むことで自身の〈傷〉を見つめ直そうとしてきたのではないか、と思うのだ。
もともと彫刻家として出発した初期から用いてきた石膏、樹脂、鉄、木といった素材から、やわらかな布、綿、壁紙や私的アンティークの数々、そして糸にいたるまで。すでに25年が経っていた。
なんどもフランスと福岡を往復しながら、彼女は何を見つめ考えてきたのだろう。
僕は早くからこの作家の、彫刻家としての才能に注目してきたものだ。彫刻から非-彫刻としての極私的空間へといたる展開。近年の作品を見ていると、多分に手芸的でありながらも〈非-手芸としての物〉の可能性、と
でもよんでみたい願望に駆られる。
末藤夕香という作家は、いまも変わらず鼻っ柱がつよいのだろうか。
かつてボルドー郊外の果てしなく続く葡萄畑の中を、愛車プジョーのハンドルを握りしめ、まっすぐに風を切り
猛スピードで疾走していた作家の姿が、いまも重なる。
鮮やかな新緑は、なおも作家を励ましてくれることだろう。 われに五月を。
同展は5月24日(日)まで。