「ART」と「アート」は、同じなのだろうか_その(1)
日本のカタカナ語彙の中で、この20年間で加速度的に氾濫したと思われるもののひとつに〈アート〉がある。
西欧語の「ART」の翻訳語として、この国では近代以降、それを「美術」あるいは「芸術」と訳し使用して
きた。かつて西欧語の受容翻訳によってこの国は、さまざまな西洋の概念を母語に移殖することによって
〈日本〉という近代を成し遂げてきたと言ってもよいだろう。「ART」と「芸術」の関係もまたしかり。
だが今「アート」という言葉はそんな翻訳語が持っていた概念をも棄て、西洋の「ART」を表音化しただけの
ものになってしまった。意味ではなく音(おん)のみが、口当たりのよいムーディーな響きのみが残り、漠然と一般化してしまったのである。じつは、この〈翻訳語喪失〉の問題は私たちにとって大きいはずなのだが、
ほとんどなし崩し的に「近代」そのものの財産が無化されていると言えないだろうか。負の近代化遺産として。
もちろん、いまさら近代が消失して何がいけないのか、と言うこともできよう。「ART」が「アート」になったのだから、むしろその方が自然ではないか、分りやすいという訳だ。
しかし、〈ART〉を問うことと、〈アート〉を問うことは、同じことではない。なぜなら、ここには文化を異に
する二重の言語があるからだ。いまの世界を牽引するグローバリズムの奔流の中にあって、なおも普遍性を
持ち、それ自体への問いを手放してはいない〈ART〉という概念(もちろん拡張や拡散はあるにしても)と、
わがカタカナの「アート」という気楽で空虚な響きを帯びた言葉とを、改めて比肩してみたくなるのは私ひとりだけだろうか。近代語(日本国語)としての「美術」も「芸術」も放擲したかに見える今。
でもなぜ、そんなことを百も承知で日本の現在の「美術業界」の多くは、都合よく「アート」を標榜し、自らをそう呼んでいるのか。それは日本の、いわゆる「現代美術」の崩壊と無関係ではないと思われる。
いわゆるポスト現代美術の受け皿としての「アート」は、いかにも「現代性」と「市場性」そして「自由」を
合わせ持っているようにも見える。しかも、ここには既存の価値への懐疑、既成概念や制度への抵抗あるいは
否定性を骨抜きにした、グローバリズムのイデオロギーそのものが反映されてはいないだろうか。
僕はその「現代美術」崩壊の分水嶺を、約20年前の1995年頃だとかんがえている一人だ。
ちなみにこの年は、ちょうど100周年を迎えた第46回ヴェネチア・ビエンナーレの年に当たっている。
(興味ある方は歴代の日本代表作家を追ってみれば、日本の「現代美術」の変質と消失の一端を知れるだろう)
また「アート」については、美術評論家の椹木野衣氏が、美術手帖2010年11月号の『後美術論』の第1回連載の冒頭で「非歴史化の進行のなかで強制終了させられる現代美術に代えて、あえて空虚な表音語「アート」を
用いる」と表明している。
(2015年3月に刊行されたその単行本『後美術論』では本という構成上からだろうか冒頭部は省かれている)
その本文ではズバリ「日本語でアートはあらゆるものを指し示す」という。
つまり、なんでもアートということだ。その通りだろう。
それでもさらに「むしろ、歴史や定義の重力から解き放たれた、この「響き」を存分に活用することで、日本語のアートでしか可能にならないような、自由で無方向な文化の運動を思い描くことはできないか」と、野望ともつかぬ希望を語っていた。この1回目前半部には、するどく的確な「アート」理解が散りばめられているので、
いまの空虚な「アート」を肯定するにせよ批判的に考えるにせよ、連載を読まれていない方は参考のために
一度単行本を手に取ってみられてはいかがだろう。
そして、それらを踏まえた上でなお、そのような「アート」ではなく、「自由で無方向な文化」の中ででも
なく、私たちが喪失した「美術」の、「芸術」の、空洞化の真っ只中で〈現代美術以後〉の、これからあろうとする〈未来の美術〉をかんがえ抜いてみたい、見てみたいと、あえて僕は思うのだが。
(つづく)