柴田高志個展 「回帰」
これでもかこれでもかと、渦巻くように繰り返される細密な線描画。
凝視すればするほど、気の遠くなるようなその描線の行方に、時として見る者は自らの視線を失いかける。
それはこの作家が作画について語っているとおり、「エネルギーの塊のようなものに『不明』を纏わせ」て
いることと無関係ではないようにも思う。つまり、絵というものは緻密であればあるほど、そこに見る者は
感嘆するという傾向があり、それに対してこの作家はどこかでそれを意識的に遮断しようとしているのでは
ないだろうか。
アートスペース貘での初個展から7年。これまでその作品の多くは、墨を使い白い紙にペンで描いてきた。
だが墨らしい滲みやぼかしはむしろ少なく、今回、蝋を垂らすなど新たな試みも見られるが、やはり鋭い
ペン先から繰り出される「線」に執拗に拘ってきた作家と言ってよいだろう。
すでにドローイング作品として賞を得るなど、その評価とこれまでの活躍はよく知られるとおりだ。
では、柴田高志はいったい何を描こうとしているのだろうか。この不気味な、奇怪な、捉えどころのない
画面。いや、もっと引き付けて読むなら、人や生き物の艶かしさ、底知れぬ妖しさ。そしてこの世のものとは 思えぬ異形のかたち、異界のものたちのうごめき、さもなくば修羅幻想の妄執なのか。
だが作家は、そのすべてにノンという。であるなら、私たちはこの絵の前で、線の前で、逡巡し続けるしか
ない。
かつて小林秀雄は、『ドストエフスキイ』の中で、「ドストエフスキイの作品の奇怪さは現実そのものの
奇怪さ」だと言った。さらに「ドストエフスキイのいわゆる不自然さは彼の徹底したリアリズムの結果で
ある、この作家が傍若無人なリアリストであったことによる。外に秘密はない」とまで言い切っている。
このような文をあえてここで引いたのは、唐突に過ぎるかもしれない。
しかし、ここには何か柴田高志の、作品の「内密」に触れるものと重なるものがあるような気がしたのだ。
もし柴田高志の絵をひとりの空想からではなく、うごめく「現実そのもの」から生まれてくる奇怪さであると
するなら、この若い画家に見えているのは、美しくも醜悪な線描画として現れてしまった〈現実の相貌〉だと
は言えないだろうか。それが、彼の絵の「わからなさ」の魅力なのかもしれない。
5月からは東京にも新たな拠点を持つという。いっそうの飛躍を期待しよう。
同展は4月12日(日)まで。