六本松遠景
きのう、思い立ち久しぶりに、六本松まで歩いた。
この頃、この街へ行くのは、もっぱら蕎麦を食べる時のみになってしまった。
昼前の開店早々に、暖簾をくぐる。店の奥からは、てきぱきとした仕込みの音が響く。
きょうは島根の酒、冷えた「王禄」を飲みながら、もりそばを頂いた。
そば湯が出てくる頃には、もう昼時だ。
さあそろそろ、席が埋まっていく店を後にしよう。
そうしてそこから別府橋大通りに出て東に向かえばすぐ、かつての九州大学六本松キャンパス
(旧九大教養部)の、大きな空洞のような跡地が広がっている。
地下鉄七隈線六本松駅辺りの交差点からは、この空地越しに谷から続く輝国の丘陵まで
遠く見渡すことが、今なら出来るのだ。いまならと言ったのは、もうすぐこの跡地には大型マンション、
複合施設が立ち、さらに裁判所、検察庁などの移転も控えている。いわば、つかの間見晴らすことのできる
「空洞」を、僕たちは他人事のようにして目撃していることになる。
ここには、かつての学生達の賑わいも、あの闘争も、催涙弾の硝煙に滲んだ正門前の街の光景も
すでにない。古い記憶や感傷など何程のものか、とでもいいたげに。しかも人間は相変わらず貪欲である。
新しいプロジェクトは、別種の「賑わいを創出しよう」と粛々と進行しているのだ。
なぜいつも、なんの謂われもなく、「風景」というものは、こうして唐突に変貌せねばならないのか。
たとえ〈近代〉というものが消滅したにせよ、解体も再生も、さらなる崩壊の後も、このようにして
延々と風景の「創出」は繰り返されて行くのだろうか。
その傍らにはいつもひとり、ぽつんと置き去りにされている、わたしたちがいる。
遠景とは、こうして眼の前に広がっているにも関わらず、同時に幾度となくわたしたちじしんが
葬り去ってきた、そしてこれからも生まれては葬り去って行くであろう、
眩しすぎる未来の光景のことかもしれない。