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アートスペース走り書き_09
堀本 達矢 Meet the KEMONO - 興味編 - [〜11月22日迄]
ここに吸い寄せられるのはオタクかマニアか、あるいはアニメ、キャラの転生かそれともケモノ、獣人へのあくがれか。それらのどれでもあり、またそのどれにも収まらり切れないもののようでもある。
「人間的な、あまりに人間的な」と言ったのはニーチェだが。
堀本達矢の白い「ケモノ」たちを見ていると〈人間的、そのあまりに非人間的な〉と呼んでみたくなる。
いや逆に〈非人間的、そのあまりに人間的な〉でもいいのだ。人間中心にかんがえると、それらは人間ではないし。
動物や獣をおもうと、人間にも思えてくる。だがいま現にある私たち「人間」でないことだけは確かだ。
ありきたりな言い方をすれば、空想のイキモノというしかないのだが、そのあり得ないものがここにアルのだ。
それらは今の若い人たちにとって、このいびつな世界や人間社会への嫌悪や現実逃避あるいはその屈折した思いが、
ケモノになりたいという願望として転移として、彼の作品への共感となってなだれ込んでいるのかも知れない。
堀本達矢が造型した「ケモノ」は、彫刻のようで人形のようなマネキンのようでフィギュアのようなまた玩具のような、そのどれであっても私たちはうなずくことができるし甘受することができる。このことはじつは危険な感じ方だけれど、今となってはこれがアートというものに対する多様というか無制限な感受の仕方なのだ。だからいかようにも受け入れられるし、溺愛も嫌悪もおなじくある。
もちろん、彼じしんはそのどれをも許容しながら、もっと別の違うものを想い描いているに違いない。たしかにここにあるケモノたちは架空のリアルさを表象しているけれど、細部に目をやると誇張されあるいは歪められ、そういった部位が合わされながらも、そのリアルさを否定するように、あり得ない〈像〉が出来上がっているのである。
なぜこの世界から逃避してはならないのか。それほど人間社会はいいものか。信じれるか、生きやすいか、生きるに値するか。すべてノーだ。だったら今の人間ではなく「非人間的」であることによって、私たちは人間でも獣でも植物でもないもっと違うイキモノになってもいいのではないか。それがケモノでないと言い切れるだろうか。堀本達矢の〈ヒトガタ〉は、そんなことを喚起させてくれる。
未知のケモノに会う、とはそういうことなのではないだろうか。私たちはなろうと欲すれば〈ケモノ〉になれるのかも知れない。
(元村正信)
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▲ 同展より