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アートスペース走り書き_05
柴田高志│上田碌碌「うゐの奥山」 [〜3月29日迄]
この一見似ているようで、そうではない二人の作家。
柴田高志は、これまでインク・鉛筆あるいは墨を使ったモノクロームの線画を一貫して追求してきた。
微細で執拗な線描の繰り返しによって生まれる画面は、ひたすら何かを描こうとしているように見えるが、
かと言ってリアルで具体的な形を結ぼうとはしない。かんたんには余人の追随を許さないほど緻密で
気の遠くなるようなこたえのない描線を目で追っているうちに、僕は行き場のないじぶんにふと気づく。
これまで何度も彼の作品を見てきたが、初期からこの方法でのスタイルはほとんど変わってはいない。
見る者は、いったい何に目を凝らし分け入ろうとするのか。肉体の陰部かそれとも険しい深山の茂みや
暗闇なのだろうか。しかしどのように想像を巡らせてもどこへも行き着かないのだ。
この世にはない、どこかの何かのようで、それでいてどこまでも奥へは進めない。
ただ上へ下へ横へと濃密な画面が広がっては淡くほつれながら余白へと途切れていく。
彼はいったい何に誘われているのだろう。自らの手が動くままか、
それとも手に先立つものが彼を衝き動かしているのだろうか。
このたとえようのないエロスの繁茂を突き抜けよう。あらゆる衝動を振り切って。
もっと深みへ暗い洞窟の奥へ連れてって、と思うのは僕だけなのだろうか。
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そして上田碌碌。
初めて見る作家だ。たとえば黒く鋭い刃物の切っ先に透かし彫られた鳥の羽のような絵。
あるいは艶やかな未知の魚の膨らみから流れるように伸びる、美しく繊細な尾や鱗のような
飾りを持つもの。いやそのどれでもない想像上の生きもののように。
水彩だろうか、どの絵も抑えられた色彩、金彩とともに、細い輪郭線の金色が悩ましい妖艶さを放っている。
しかしそれらは羽とも鱗とも言えない異形の表面が織りなすだけの、生きものとはいえないものなのかも
知れない。じゅうぶんに装飾的かつ非現実的な仮象それ自体。
あり得ないものが、しかし描かれることによってそこにある。
いまさらだが 描くということ、あるいは描かれたものは、それだけでどこにも〈ありもしないもの〉なのだ。
だからそれがどんなに超写実的でありまたミニマルな抽象形態であったとしても。
それでも彼女の絵は、そんなありもしないものと、あるものとのあいだに、生まれてくるようにも思える。
もし装飾というものが何かを飾るためのものであるのなら、その意味で彼女の絵は「装飾」ではない。
では、装飾それ自体が「絵」でもあるなら。
それも艶かしい飾りがそのまま表皮であり表面であり骨格でもあるのなら。
上田碌碌の絵を〈装飾それ自体〉ということができるのではないか。それも血の通った装飾それ自体と。
黒く、あるいは赤く青く、黄金の黄土の、褐色の緑青の、そのような血が通った装飾。
華美で妖艶で、その羽で暗黒へといざなう〈生きもの〉そして〈ありもしないもの〉たちが、そこにある。
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ちなみに今展のタイトル「うゐの奥山」は、この世の無常を道もなく越えにくい深山にたとえた言葉である。
柴田高志と上田碌碌、二人の作家にあっては陰陽の「無常」というものがより近くに感じられた。
(元村正信)
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